蒋介石 (しょうかいせき)
【概説】
孫文の死後、中国国民党を率いて北伐を完了させ、中華民国の統一を果たした政治家・軍人。満州事変以降の日本の大陸進出に対する最大の障壁となり、日中戦争においては抗日陣営の最高指導者として日本軍と激しく対峙した。
孫文の後継者と北伐の断行
浙江省の出身である蒋介石は、若き日に日本へ留学して東京の振武学校などで軍事教育を受けた経験を持つ。辛亥革命後に孫文の率いる広東軍政府に参加し、ソ連の支援を受けて設立された黄埔軍官学校の校長に就任して国民党の軍事的基盤を築き上げた。
1925年の孫文の死後、国民党内での実権を掌握した蒋介石は、1926年に国民革命軍総司令として軍閥打倒と中国統一を目指す北伐を開始した。その過程で共産党の勢力拡大を警戒した彼は、1927年に上海クーデタを起こして共産党を弾圧し(第一次国共合作の崩壊)、南京に国民政府を樹立した。1928年には、居留民保護を名目とした日本の山東出兵(済南事件)による武力干渉を受けながらも北京に入城した。その後、満州の軍閥である張学良が国民政府に合流(易幟)したことで、全中国の一応の統一を達成した。
満州事変と「安内攘外」政策
中国統一を果たした国民政府に対し、日本軍(関東軍)は強い危機感を抱き、1931年に満州事変を引き起こした。日本軍が中国東北部を制圧し「満州国」の建国を宣言する中、蒋介石は日本との直接的な全面衝突を避け、国際連盟への提訴による外交的解決に望みを託した。
当時の蒋介石は、国内で勢力を立て直していた毛沢東らの中国共産党を最大の脅威と見なしており、「国内の平定を優先し、外敵の排除は後回しにする」という安内攘外(あんないじょうがい)政策を採用していた。しかし、この政策は日本の華北分離工作を容易にさせ、結果的に日本の侵略を黙認する形となったため、中国国内の知識人や学生、軍内部から強い不満と抗日要求が噴出することとなった。
西安事件と日中戦争の勃発
1936年、共産党軍の討伐を命じられていた張学良が、滞在中の蒋介石を監禁し、内戦の停止と一致抗日を迫る西安事件が発生した。周恩来らの調停もあり、蒋介石は共産党との内戦停止に同意した。これにより中国国内の抗日機運は一気に高まり、第二次国共合作への道が開かれた。
翌1937年7月に盧溝橋事件が発生すると、蒋介石は徹底抗戦を決意し、ついに日中戦争が勃発した。装備で勝る日本軍の攻勢により、首都・南京が陥落(南京事件)したものの、蒋介石は政府を武漢、さらに奥地の重慶へと遷都しながら頑強に抵抗を続けた。アメリカやイギリスからの物資支援(援蒋ルート)を背景にした国民政府の長期持久戦術は、日本軍を広大な中国大陸の泥沼に引きずり込むこととなった。
連合国の一員としての勝利と台湾逃亡
1941年に太平洋戦争が勃発すると、蒋介石の国民政府はアメリカ・イギリスらと共に正式に連合国の一員となった。1943年にはルーズベルト、チャーチルと共にカイロ会談に出席し、日本の無条件降伏や満州・台湾の中国への返還を協定するなど、戦後の国際秩序形成において大国としての地位を確保した。
1945年8月の日本のポツダム宣言受諾により戦勝国となった蒋介石であったが、共通の敵である日本が敗北したことで、直ちに共産党との国共内戦が再開された。インフレーションや役人の腐敗によって民衆の支持を失った国民党軍は、農村部を中心に支持を固めた共産党軍に連敗を喫した。1949年、毛沢東による中華人民共和国が成立すると、蒋介石は大陸を放棄して台湾へと逃れ、台北に中華民国政府を維持した。
戦後の日本(吉田茂内閣)は、アメリカの強い意向もあって1952年に台湾の国民政府との間で日華平和条約を締結し、蒋介石を中国の正統な代表として承認した。しかし、1972年に田中角栄内閣が中華人民共和国と日中国交正常化を果たしたことに伴い、日本と台湾の外交関係は断絶した。蒋介石はその後も台湾における権威主義的な統治(戒厳令)を敷き「大陸反攻」を掲げ続けたが、その夢を果たすことなく1975年に没した。