広東(国民政府)

中国国民党が最初の国民政府を樹立し、蒋介石が国民革命軍を率いて北伐を開始した中国南部の拠点はどこか?
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重要度
★★

広東(国民政府) (かんとん(こくみんせいふ)

1925年〜1926年

【概説】
中国南部の都市である広東に樹立された、中国国民党による最初の革命政府。孫文の遺志を継いだ蒋介石らが組織し、中国の軍閥割拠状態を解消して国家統一を目指す「北伐」の出撃拠点となった。この政府の台頭と北上は、日本の対中国外交および大陸政策を大きく揺さぶることとなった。

革命の拠点・広東と国民政府の誕生

中国南部の広東(現在の広東省広州市)は、古くから海外との交易で栄え、近代以降は清朝に対する革命運動の揺籃の地であった。辛亥革命後も、孫文は広東を拠点に軍閥に対抗する革命政府(広東軍政府など)を度々樹立していた。

1924年、孫文は中国共産党との連携を決断し(第一次国共合作)、「連ソ・容共・扶助工農」の三大政策を掲げて国民党の改組を行った。翌1925年3月に孫文が急逝したのち、同年7月に国民党派の諸勢力が結集して正式に国民政府(広東国民政府)が樹立された。この政府は、国民党右派の蒋介石が国民革命軍総司令として実権を握り、反帝国主義と軍閥打倒を掲げて中国の統一を目指した。

「北伐」の開始と幣原外交の苦悩

1926年7月、広東国民政府は北方の軍閥を打倒して中国を統一するため、北伐(北伐作戦)を開始した。国民革命軍は破竹の勢いで北上し、揚子江流域へと勢力を拡大した。これに伴い、国民政府は1926年末に拠点を武漢へと移し(武漢国民政府)、広東国民政府としての役割を終えた。

この時期の日本は、憲政会(のちの立憲民政党)の加藤高明内閣および若槻礼次郎内閣であり、外相を務めた幣原喜重郎は「対支協調・内政不干渉」を掲げる幣原外交を展開していた。幣原は、広東から始まった中国のナショナリズムの台頭や主権回収運動に対して、軍事介入を避けて対話による解決を図ろうとした。しかし、北伐軍が日本権益の多い華北に迫るにつれ、陸軍や右翼勢力、さらには野党の立憲政友会などから「軟弱外交」との激しい批判を浴びることとなった。

田中積極外交への転換と満州事変への伏線

1927年、金融恐慌の混乱の中で若槻内閣が倒れ、立憲政友会の田中義一内閣が成立すると、日本の対中方針は「積極外交」へと大きく舵を切った。田中義一首相(外相兼任)は、北伐軍の華北進出によって日本の権益が脅かされることを恐れ、満蒙(南満州および東部内蒙古)の権益保護を最優先課題とした。

蒋介石が共産党を弾圧して武漢政府と決別し、新たに南京国民政府を樹立して北伐を再開すると、田中内閣は山東省の居留民保護を口実に計3回にわたる山東出兵を断行した。これにより日本軍と北伐軍が武力衝突(済南事件)を起こすなど、日中間の緊張は一気に高まった。広東の地から始まった国民政府の統一運動は、最終的に北方の張作霖を追いつめ、のちの満州事変へとつながる関東軍の暴走(張作霖爆殺事件など)を引き起こす契機となったのである。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 近江国(滋賀県)北部にあり、堺や根来と並んで鉄砲の大量生産地として発達した都市はどこか?
Q. 律令国家において、律令や格を実施するための詳細な施行規則や実務の細則を定めたものを何というか?
A.
Q. 綱吉の治世前半に行われた、大老堀田正俊を中心とする厳正な政治を何と称賛するか。