天和の治

綱吉の治世前半に行われた、大老堀田正俊を中心とする厳正な政治を何と称賛するか。
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重要度
★★

【参考リンク】
堀田正俊(Wikipedia)

天和の治 (てんなのち)

1681〜1684年

【概説】
江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の治世初期における、儒学の徳治主義に基づいた堅実な政治改革。大老堀田正俊を重用して厳正な綱紀粛正と財政再建を推進し、従来の武断的な気風を排して文治政治を確立した。後世において「天下の治」などと称賛された、江戸時代中期の画期となった政治。

「犬公方」前夜の将軍親政と堀田正俊の起用

1680年、4代将軍徳川家綱が後嗣なく没すると、その弟である館林藩主の徳川綱吉が5代将軍に就任した。就任直後の綱吉は、それまで幕政の実権を握っていた「下馬将軍」こと大老酒井忠清を退け、老中から大老に昇進させた堀田正俊を片腕に据えて積極的な政治改革に乗り出した。これが「天和の治」の始まりである。

綱吉が最初に着手したのは、将軍権力の絶対化と将軍親政の確立であった。家綱期に肥大化した宿老による合議制を抑え、将軍自身が政務を直接裁決する体制を整えた。その象徴となったのが、越後高田藩の世継ぎ争いである越後騒動の裁断である。綱吉は自らこの裁判を再吟味し、不公平な処分を下していた旧幕閣の決定を覆して当事者たちを厳罰に処した。これにより、将軍が司法の最高権威であることを内外に示すとともに、幕政刷新の強い決意をアピールすることに成功した。

綱紀粛正の断行と文治政治の推進

天和の治において最も重視されたのが、官僚制の引き締めと儒学(特に朱子学)に基づく徳治政治の実現であった。綱吉と堀田正俊は、幕臣たちの勤務評定を厳格に行い、不適切な言動や汚職を行った役人を容赦なく罷免・処罰した。また、諸大名に対しても厳しい態度で臨み、失政や不忠があった場合には容赦なく改易・減封を断行した。これにより、武士階級に対して従来の主従関係から、法令を順守する官僚としての自覚を強く促したのである。

また、学問を好む綱吉は、自ら『易経』などの儒学の経書を幕臣や大名たちに講義し、武の力ではなく学問や礼儀、道徳によって世を治める文治政治を推進した。これに伴い、戦国時代の名残を残す殺伐とした武芸(殉死の禁止の徹底など)や、傾奇者の横行が徹底的に取り締まられ、社会の道徳的安定と治安の維持がもたらされた。

「天和の治」の終焉と歴史的再評価

堅実かつ厳格に進められた天和の治であったが、1684年(天和4年)に大きな転機を迎える。綱吉の信頼を一身に集め、改革の推進力であった大老堀田正俊が、江戸城内において若年寄の稲葉正休に刺殺されるという衝撃的な事件が発生したのである。これ以降、綱吉は老中たちとの距離を置くようになり、側近の牧野成貞やのちの柳沢吉保らを用いた側用人政治へと政治体制を移行させていく。

堀田の死後、綱吉の政治は有名な「生類憐みの令」の制定や貨幣改鋳によるインフレなど、元禄期の個性的な政治へと変質していく。このため、後世の歴史家は天和年間前半の堅実な政治を「天和の治」として称賛し、後半の政治を「悪政」として対比させることが多かった。しかし、現代の歴史研究においては、前半の「天和の治」も後半の「元禄の政治」も、ともに儒教的な孝道や人道主義を社会に浸透させ、兵学者や武断派を抑えて法秩序を確立するという一貫した方針(元禄の治)のもとに展開されたものとして、その連続性が重視されている。

徳川綱吉 (人物叢書 新装版)

生類憐れみの令に隠された真意を解き明かし、稀代の暴君という通説を覆して、文治政治の理想を追求した将軍の知られざる実像を描く一冊。

徳川綱吉と元禄時代

華やかな元禄文化の背景にある幕政の変遷と経済構造の変化を緻密に分析し、光と影が交錯する江戸時代中期の政治社会を鮮やかに浮かび上がらせる書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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Q. 大塚楠緒子が発表した詩で、「天皇の命令よりも、夫の無事を祈る」という妻の切実な心情を詠んで反響を呼んだ作品は何か?
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