堀田正俊 (ほったまさとし)
【概説】
江戸時代前期の譜代大名であり、5代将軍徳川綱吉のもとで大老として幕政を主導した政治家。
家綱急逝時の将軍継嗣問題で綱吉の擁立に尽力し、その治世前半において「天和の治」と呼ばれる文治政治への転換を強力に推進した。
しかし、その絶頂期に江戸城内において若年寄の稲葉正休に刺殺されるという、衝撃的な最期を遂げた。
将軍後継問題での暗躍と大老就任
堀田正俊は、3代将軍徳川家光の側近として権勢を誇った堀田正盛の三男として生まれた。春日局の養子(あるいは養育)として育てられた経歴を持ち、早くから幕政の中枢に関わるエリートとしての道を歩んだ。正俊の政治的キャリアにおける最大の転機は、延宝8年(1680年)の4代将軍徳川家綱の危篤・死去に伴う将軍継嗣問題である。
当時、幕政の実権を握っていた大老・酒井忠清は、鎌倉時代の先例に倣って皇室から「宮将軍」を迎えようと画策したとされる。これに対し、老中の一人であった正俊は、家綱の異母弟である館林藩主・徳川綱吉を擁立すべきだと強く主張し、酒井忠清らの動きを阻止した。この正俊の果断な行動により、綱吉が5代将軍に就任することとなった。将軍親政を志す綱吉は酒井忠清を罷免し、翌天和元年(1681年)に正俊を大老に任命して、自らの片腕として幕政の全権を委ねた。
「天和の治」の推進と文治政治への転換
大老となった正俊は、将軍綱吉との二人三脚により、それまでの武力による威嚇を背景とした武断政治から、儒教的な徳治主義に基づく文治政治への完全な脱皮を目指した。この一連の政治改革は、のちに「天和の治」と称えられ、幕政の健全化に大きく寄与することとなる。
正俊が取り組んだ改革は多岐にわたる。財政再建のために領地判物(領有権の確認書)の発給手続を簡素化し、地方知行制から俸禄制への移行を促したほか、代官の不正を厳しく取り締まるなどして農民支配の安定化を図った。また、越後高田藩の継嗣問題をめぐるお家騒動(高田騒動)では、将軍綱吉による親裁という形で不公平な審理を正し、従来の幕閣の癒着を排除した。さらに、戦国時代の余風を残す殉死の禁止を改めて徹底させ、学問や礼節を重んじる社会秩序の構築に努めた。これらは、のちの「生類憐みの令」へとつながる人命尊重の思想的土壌を築くものでもあった。
江戸城内での刺殺と側用人政治への契機
このように文治政治への改革を着実に進めていた正俊であったが、貞享元年(1684年)8月28日、突如として悲劇が訪れる。江戸城内の若年寄控室付近において、従弟にあたる若年寄・稲葉正休に突然刺殺されたのである。犯人の正休はその場で討ち取られたため、暗殺の正確な動機は現在も謎に包まれており、淀川治水事業をめぐる対立や、正俊の独裁的権勢に対する怨恨など、諸説が入り乱れている。
この前代未聞の大老暗殺事件は、江戸幕府の権力構造を激変させる重大な契機となった。最も信頼していた正俊を城内で失った将軍綱吉は、老中たちが勤務する執務室(御座の間)から距離を置くようになり、老中や大老を政治的意志決定から遠ざけるようになった。これに代わって、将軍個人の意思を直接老中たちに伝達する役職として側用人(牧野成貞や柳沢吉保など)が台頭することとなる。正俊の死は、大老主導の合議制政治から、将軍親政を補佐する「側用人政治」へと幕政が急速に傾斜していく境界線となったのである。