北伐 (ほくばつ)
【概説】
中国において蒋介石率いる国民革命軍が、北京の軍閥政権などを打倒して国内を統一するために行った軍事行動。日本の対中国外交を協調路線から武力干渉へと一変させ、昭和戦前期の対外進出や満洲事変へとつながる重大な契機となった事件である。
蒋介石の北伐開始と幣原外交の苦境
1926年7月、広東の国民政府は蒋介石を総司令とする国民革命軍を組織し、北方軍閥の打倒と中国統一を目指す「北伐」を開始した。革命軍は破竹の勢いで北上し、1927年には南京や上海を占領、同年の上海クーデターを経て国共分裂に至るなど、中国大陸の情勢は激動した。
この事態に対し、日本の第一次若槻礼次郎内閣の幣原喜重郎外相は、中国の内政には干渉せず、国際協調を維持する「幣原外交(協調外交)」を堅持した。しかし、中国におけるナショナリズムの昂揚(反日運動)や、現地居留民の安全を懸念する軍部・右翼・野党の政友会などからは、幣原の姿勢は「軟弱外交」であると激しい非難を浴びることとなった。
田中義一内閣の成立と山東出兵
1927年4月、金融恐慌の勃発により若槻内閣が倒れ、立憲政友会の田中義一が首相に就任した(外相も兼任)。田中内閣は従来の協調外交を改め、日本の権益を武力で防衛する「積極外交」へと方針を転換した。
北伐軍が山東省へと迫ると、田中内閣は現地居留民の保護を名目に、1927年5月から翌年にかけて計3回にわたる山東出兵を断行した。特に1928年の第二次山東出兵の際には、済南において国民革命軍と日本軍が武力衝突を起こす済南事件へと発展し、日中両国の対立は決定的なものとなった。この軍事干渉は、中国における反日感情をさらに激化させる結果を招いた。
張作霖爆殺事件と中国統一の完了
北伐の進展は、東北地方(満洲)を本拠地とし、日本が支援していた北方軍閥の首領・張作霖を窮地に追い込んだ。1928年6月、北伐軍に押された張作霖は北京を脱出して満洲へ退却しようとしたが、これを不満とする日本の関東軍(高級参謀の河本大作ら)によって、奉天郊外で列車ごと爆殺された(張作霖爆殺事件、当時の日本では「満洲某重大事件」と呼称)。
関東軍は、張作霖の排除によって満洲の直接支配を試みようとしたが、張作霖の跡を継いだ息子の張学良は、1928年12月に蒋介石の国民政府への帰順を表明(易幟)した。これにより、蒋介石による中国統一(北伐)が完了するとともに、満洲にも国民政府の主権が及ぶこととなり、焦燥感を強めた関東軍による後の満洲事変の引き金へとつながっていった。