南京(国民政府) (なんきん(こくみんせいふ)
【概説】
1927年、蒋介石率いる中国国民党右派が共産党を排除して南京に樹立した中華民国の統治機関。翌年の北伐完了によって中国の正統な中央政府となり、近代化政策を推進したが、日中戦争の激化に伴い重慶への遷都を余儀なくされた。日本の敗戦に伴い南京に復帰したものの、その後の国共内戦に敗れて1949年に台湾へ移転した。
南京国民政府の成立と「黄金の十年」
1926年に開始された国民革命軍の北伐の過程で、国民党内部では共産党との協調を重視する左派(武漢政府)と、反共姿勢を強める右派の対立が激化した。1927年4月、軍事権を握る蒋介石は上海クーデター(四・一二政変)を断行して共産党勢力を弾圧し、武漢政府に対抗して南京に独自の国民政府を樹立した。これにより第1次国共合作は崩壊した。
1928年、蒋介石の南京国民政府は北伐を再開し、北京を支配していた奉天軍閥の張作霖を敗走させた。張作霖が日本の関東軍に爆殺(張作霖爆殺事件)されたのち、跡を継いだ張学良が南京政府への服従を表明(易幟)したことで、国民政府による中国統一が名実ともに達成された。これ以降、1937年の日中戦争勃発までの約10年間は「黄金の十年」と呼ばれ、関税自主権の回復や法幣の導入による幣制改革など、国家の近代化と中央集権化が急速に進められた。
日中関係の悪化と「二つの南京政府」
統一を達成した南京国民政府に対し、満洲(中国東北部)への権益拡大を狙う日本(関東軍)は警戒を強め、1931年に満洲事変を引き起こした。蒋介石は「先安内後攘外」(国内の共産党討伐を優先し、その後に外敵である日本に立ち向かう)の方針をとり、一時は対日妥協を図ったが、国内の抗日世論の高まりや1936年の西安事件を経て、共産党との内戦を停止し、対日抗戦へと舵を切ることとなった(第2次国共合作)。
1937年7月の盧溝橋事件を機に日中戦争が本格化すると、日本軍は同年末に首都・南京を占領した(この際、南京事件が発生)。蒋介石は政府を武漢、さらには四川省の重慶へと移転させ(重慶国民政府)、徹底抗戦を続けた。一方、日本は占領地支配を正当化するため、1940年に国民党の親日派指導者であった汪兆銘を首班とする、もう一つの「南京国民政府」(汪兆銘政権)を樹立させた。これにより、重慶の蒋介石政権と南京の汪兆銘政権という、二つの「国民政府」が並立する事態が生じたが、国際的な正統性を獲得したのは終始、重慶の蒋介石政府であった。
戦後処理と台湾への撤退
1945年8月、日本の敗戦によって汪兆銘政権(汪自身は前年に病没)は崩壊し、蒋介石の国民政府は重慶から首都・南京へと帰還した。連合国の一員として「世界五大国」の一角に数えられた国民政府であったが、戦後直ちに毛沢東率いる中国共産党との間で国共内戦が再開された。
インフレーションによる経済の破綻や政府内部の腐敗により、国民政府は急速に民心を失い、軍事的にも共産党の人民解放軍に対して劣勢に立たされた。1949年4月、人民解放軍が総攻撃を仕掛けて南京を占領すると、国民政府は広東や重慶などを経て、最終的に同年末に台湾(台北)へと撤退した。これにより、大陸における南京国民政府の歴史は幕を閉じ、同年10月に毛沢東を主席とする中華人民共和国が北京に樹立されることとなった。