義良親王

高校日本史的重要度

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義良親王 (のりよししんのう)

1328年〜1368年

【概説】
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子で、のちの南朝第2代天皇である村上天皇建武の新政期に東国支配の要として陸奥国に下向し、北畠顕家らとともに陸奥将軍府を組織して足利氏に対抗した政治・軍事上の象徴的権威である。

陸奥将軍府の設置と奥州下向

1333年、鎌倉幕府を滅ぼして建武の新政を開始した後醍醐天皇は、新政権の地方支配を安定させるため、また足利氏の台頭を牽制するために、東北地方へ自身の皇子を派遣することを決定した。このとき、わずか6歳で陸奥太守として下向したのが義良親王である。

義良親王を補佐する陸奥大介(のちの陸奥国司)には、親政の理論的支柱であった北畠親房の長男・北畠顕家が任じられた。彼らは多賀城(現在の宮城多賀城市)に陸奥将軍府を樹立し、現地の武士団を組織して、朝廷による奥州直接支配の確立を目指した。この動きは、関東を基盤とする足利尊氏の勢力に対する強力な楔(くさび)としての役割を持っていた。

建武政権の崩壊と後村上天皇としての即位

1335年、足利尊氏が建武政権に叛旗を翻すと、義良親王は北畠顕家に奉じられて奥州の軍勢を率いて西上し、一時は尊氏を九州へと敗走させた。しかし、再び勢力を盛り返した尊氏によって京都が占領されると、義良親王と顕家は再び奥州へ戻り、足利方の追撃や現地の混乱に対処せざるを得なくなった。その後、顕家が和泉国(大阪府)の石津の戦いで戦死すると、義良親王は吉野奈良県)の南朝朝廷へと逃れた。

1339年、病に倒れた父・後醍醐天皇の譲位を受けて、義良親王は即位した(村上天皇)。即位後は北畠親房らの補佐を受けながら、終生にわたり吉野や住吉などを転々としながらも、北朝および室町幕府との抗争を継続し、南朝の正統性を守り抜く戦いに身を投じることとなった。

最終更新:
2026年6月30日 @ 10:44

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