北畠顕家

義良親王を奉じて陸奥将軍府の実権を握り、尊氏が反旗を翻した際は奥州から上洛してこれを破った若き公家武将は誰か?
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重要度
★★

北畠顕家 (きたばたけあきいえ)

1318年〜1338年

【概説】
南北朝時代に活躍した公家であり、南朝方の代表的な武将。後醍醐天皇による建武の新政期に陸奥将軍府の実質的なトップとして東北地方の統治にあたった。足利尊氏の叛乱に際しては、奥州から驚異的な行軍速度で上洛して尊氏を九州へ敗走させるなど、卓越した軍事才略を発揮して南朝を支え続けた若き名将である。

陸奥将軍府の設立と多賀城下向

鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による建武の新政が開始されると、天皇は新政権の地方支配を確立するため、東北地方の統治を目的に陸奥将軍府を創設した。1333(元弘3)年、わずか16歳であった北畠顕家は陸奥守に任命され、のちの後村上天皇となる義良(のりよし)親王を奉じて奥州の多賀城(現在の宮城県多賀城市)へと下向した。この下向には、顕家の父であり建武政権の思想的・指導的重鎮であった北畠親房も同行し、実質的な後見人として顕家の地方統治を支えた。

顕家は奥州の有力武士である伊達氏や結城氏などを組織化し、旧鎌倉幕府勢力の残党を鎮圧しながら独自の支配体制を構築した。この陸奥将軍府は、関東を管轄するために足利直義が成良親王を奉じて設置した「鎌倉将軍府」と並び、建武政権における地方統治の二大重要拠点として、極めて高い独立性を有していた。

「奥州猛駆け」と足利尊氏の撃破

1335(建武2)年、北条氏の残党による中先代の乱を契機に、足利尊氏が建武政権に叛旗を翻した。鎌倉を占領した尊氏が京都へと進撃を開始すると、顕家は義良親王を擁して直ちに奥州から南下を開始した。この行軍は、奥州から鎌倉街道を経て京都に至る数百キロメートルにおよぶ道程を、わずか半月ほどで急行するという驚異的な速度で行われ、のちに「奥州猛駆け」と称された。

1336(延元元/建武3)年初頭、京都に到達した顕家の奥州軍は、西国の新田義貞楠木正成の軍勢と同盟・合流し、足利軍に対して激しい攻勢をかけた。顕家らの活躍によって足利軍は敗北を喫し、尊氏は京都を追われ九州へと敗走することとなる。公家でありながら騎馬兵主体の強力な機動力を組織し、足利尊氏を一時的に破滅の危機に追い込んだ顕家の軍事指揮能力は、当時において突出していた。

再度の西上と石津の戦い、そして「顕家上奏文」

九州に逃れた足利尊氏は瞬く間に勢力を挽回して東上し、湊川の戦いで楠木正成を破って再び京都を制圧した。後醍醐天皇が吉野へ逃れて南北朝時代が始まると、顕家は南朝を救援するため、1337年に再び奥州からの大遠征(第二次西上)を開始した。道中で鎌倉を攻略した顕家は、さらに青野原の戦い(美濃国)で北朝方を破るなど猛威を振るったが、長年にわたる転戦によって奥州軍は疲弊し、物資も枯渇していった。

1338(延元3/暦応元)年、顕家は和泉国石津(現在の大阪府堺市)において、北朝・室町幕府の執事である高師直が率いる大軍と激突(石津の戦い)し、力戦むなしく21歳の若さで戦死した。死の直前、顕家は後醍醐天皇に対し、独裁的政治の批判や恩賞の不公平さを戒め、地方を軽視する姿勢を鋭く指摘した「北畠顕家上奏文」を提出している。これは、建武の新政の実態と南朝の弱点を論じた極めて貴重な歴史的史料であり、彼の高い知性と政治的見識、そして悲劇的な最期を物語るものとして知られている。

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北畠顕家の旗-蘭陵王太平記

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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