霊山 (りょうぜん)
1337年〜1347年頃
【概説】
現在の福島県伊達市と相馬市にまたがる峻険な山。南北朝時代、足利方の攻撃によって多賀城を追われた北畠顕家が、陸奥国府(陸奥将軍府)を移転させて南朝方の反撃拠点とした地である。
多賀城陥落と霊山への国府移転
建武の新政において、後醍醐天皇は東国の支配を安定させるため、義良親王を奉じた北畠顕家を陸奥に派遣し、多賀城(現在の宮城県多賀城市)に陸奥将軍府を設置した。しかし、足利尊氏の挙兵に端を発する南北朝の動乱のなか、奥羽地方でも激しい戦闘が勃発する。1336(延元元/建武3)年、足利方の相馬氏や斯波氏らの猛攻によって多賀城が陥落。窮地に陥った顕家は、翌1337(延元2/建武4)年に天然の要害である霊山に国府を移し、南朝勢力の立て直しを図った。
南朝の東国拠点としての役割と終焉
霊山は、急峻な岩壁に囲まれた強固な山城(霊山城)であり、北朝方に対する防衛拠点として機能した。顕家はこの地で兵力を整えたのち、再び京都を奪還すべく大規模な西上作戦を敢行したが、1338(延元3/暦応元)年に和泉国石津の戦いで戦死した。顕家の死後も、弟の北畠顕信らが霊山を維持し、奥羽における南朝の抵抗拠点であり続けたが、1347(正平2/貞和3)年(諸説あり)に北朝方の攻撃を受けて陥落し、陸奥における南朝勢力は大きく後退することとなった。