フィリピン

高校日本史的重要度
★★★

フィリピン

【概説】
スペインがアジアにおける拠点とし、のちに同国国王フェリペ2世の名をとって名付けられた東南アジアの諸島。日本史の文脈においては、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、マニラを拠点とするスペイン勢力(イスパニア)との南蛮貿易や外交交渉、そしてキリスト教布教をめぐる摩擦の舞台として極めて重要な位置を占めた。

スペインのアジア進出とマニラの建設

大航海時代、アジアの香辛料や富を求めたヨーロッパ諸国の中で、いち早く東南アジアに進出したのはポルトガルスペインであった。1521年にマゼランが到達して以降、スペインはこの地域の植民地化を進め、1565年にはレガスピがセブ島に最初の拠点を築いた。その後、1571年にルソン島マニラを建設して総督府を置き、アジアにおける最大の拠点とした。この諸島は、当時のスペイン国王フェリペ2世にちなんで「フィリピン」と命名された。

マニラは、中国(明)の生糸絹織物と、スペインの米州植民地(メキシコ)で産出される銀とを交換するガレオン貿易(アカプルコ貿易)の中継地として大いに繁栄した。当時、マカオを拠点に長崎などで対日貿易(南蛮貿易)を独占的に行っていたポルトガルに対し、スペインもまたフィリピンを足がかりとして日本への進出を画策するようになった。

豊臣政権とフィリピン総督府の外交的緊張

日本国内を統一した豊臣秀吉は、強気な対外膨張政策を展開した。朝鮮出兵文禄・慶長の役)を開始した1592年、秀吉は原田孫七郎を使者としてマニラのフィリピン総督に服属と入貢を要求する国書を送った。強大な軍事力を持つ豊臣政権からの要求に対し、フィリピン総督のダスマリニャスは武力衝突を避けるため、フランシスコ会の修道士らを使節として日本へ派遣し、巧みな外交交渉で時間を稼いだ。

この外交的接触を機に、日本とフィリピンの間の交易は活発化した。特にフィリピンから持ち込まれた実用的な陶器は、当時の日本の茶人たちの間でルソンとして高く評価され、法外な高値で取引されるなど、南蛮貿易における重要な交易品の一つとなった。

サン=フェリペ号事件とキリシタン弾圧

豊臣政権とスペインの関係に決定的な亀裂をもたらしたのが、1596年に発生したサン=フェリペ号事件である。マニラからメキシコへ向かっていたスペインの大型ガレオン船サン=フェリペ号が土佐国(現在の高知県)に漂着した際、乗組員の一人が「スペインはまず宣教師を派遣して信徒を増やし、その後に軍隊を送って内部から呼応させることで領土を征服してきた」という趣旨の発言をしたとされた。

この報告を受けた秀吉は、キリスト教に対する警戒を決定的なものとし、直ちに禁教令を強化した。その結果、京都や大阪で捕らえられたフランシスコ会宣教師や日本人信徒ら26名が長崎に送られ、処刑される二十六聖人殉教が引き起こされた。これは、日本の権力者がキリスト教に対して行った最初の組織的な処刑であり、フィリピン(スペイン)がもたらす宗教的影響力に対する強い恐怖の表れであった。

日本人町の形成と鎖国体制への道程

豊臣秀吉の死後、政権を握った徳川家康は当初、貿易の利益を重視してスペインとの関係改善を図り、フィリピンとの交易を奨励した。朱印船貿易の進展に伴って多くの日本人がルソン島へ渡航し、マニラ郊外のディラオなどには数千人規模の日本人町が形成された。1614年、江戸幕府によるキリスト教禁教令によって国外追放されたキリシタン大名高山右近マニラに身を寄せ、スペイン総督から国賓級の手厚い歓迎を受けている。

しかし、家康の死後、江戸幕府はキリスト教が幕藩体制を脅かす危険思想であるとの認識を深め、弾圧を強化した。幕府は、マニラを拠点とするスペイン宣教師の潜入を断つため、1624年にスペイン船の来航を全面的に禁止し、事実上の国交断絶に踏み切った。こうして、安土桃山時代から続いたフィリピンとの直接的な交流は終わりを告げ、日本はポルトガル船の来航禁止(1639年)を最終段階とする「鎖国」体制へと突き進んでいくこととなる。

最終更新:
2026年6月16日 @ 07:04

日本史一問一答(ランダム)

Q. 紋様のない麻布で作られた狩衣のことで、主に下級役人や一般庶民が着用した衣装を何というか。
Q. 女房装束において、腰から後ろに長く引きずって身につけるプリーツ状の装飾布を何というか。
A.
Q. 大塩平八郎の乱に触発され、同じ1837年に越後国の柏崎で貧民救済を掲げて代官の陣屋を襲撃した国学者は誰か?