朝鮮出兵(文禄・慶長の役) (ちょうせんしゅっぺい(ぶんろく・けいちょうのえき)
【概説】
豊臣秀吉が明の征服を目指し、その案内(仮途入明)を拒否した朝鮮に対して1592年と1597年の二度にわたり大軍を派遣した侵略戦争。東アジア全域を巻き込んだ大規模な国際紛争であり、豊臣政権の衰退と東アジアの国際秩序の変容を招いた。
出兵の背景と秀吉の野望
1590年(天正18年)の小田原征伐によって全国統一を成し遂げた豊臣秀吉は、次なる目標として「唐入り」、すなわち明の征服という壮大な野望を抱くようになった。この無謀とも言える対外侵略の動機については諸説ある。統一事業を終えたことで国内に新たな恩賞用の土地が不足したため、大名や武士の不満を外に向けさせ領地を獲得しようとしたとする説や、当時の東アジア交易圏を武力で掌握しようとしたとする説、あるいは秀吉自身の誇大妄想的な功名心によるものとする説などが挙げられる。
秀吉は対馬の宗氏を通じて、朝鮮に対して日本への服属と明へ攻め入るための道案内(仮途入明)を再三にわたって要求した。しかし、明を宗主国と仰ぎ、儒教的秩序(華夷秩序)を重んじていた李氏朝鮮はこれを強硬に拒絶。交渉が暗礁に乗り上げた結果、秀吉は武力による朝鮮半島の制圧と明への侵攻を決断したのである。
文禄の役(1592年〜1593年)と戦局の膠着
1592年(文禄元年)、秀吉は肥前国(現在の佐賀県)に築いた名護屋城を前線基地とし、約15万の大軍を朝鮮半島へ渡海させた。これを文禄の役と呼ぶ。緒戦において、実戦経験が豊富で鉄砲(火縄銃)を大規模に運用する日本軍は破竹の勢いで進撃し、開戦からわずか1ヶ月足らずで首都の漢城(現在のソウル)を陥落させ、さらに平壌まで占領した。
しかし、快進撃は長くは続かなかった。朝鮮の海将である李舜臣が率いる水軍が亀甲船などを駆使して日本側の水軍を次々と打ち破り、制海権を奪って日本軍の補給線を寸断した。さらに、朝鮮各地で両班(貴族階級)や僧侶を中心とした民衆のゲリラ部隊(義兵)が蜂起し、日本軍の背後を脅かした。そこに明から李如松を総兵官とする約4万の援軍が到着し、戦線は次第に膠着状態に陥っていった。
欺瞞的な講和交渉と慶長の役(1597年〜1598年)
戦局の泥沼化を受け、日本軍の先鋒であった小西行長と明の使節である沈惟敬の間で秘密裏に講和交渉が開始された。しかし、この交渉は双方の君主を欺く形で進められた。秀吉は「明の皇女を天皇の妃とする」「朝鮮半島南部を日本に割譲する」などの非現実的な強硬条件を提示したが、小西らはこれを隠蔽し、あたかも秀吉が明に降伏・朝貢するかのように文書を偽造して明側に伝えた。
1596年、明からの使者が秀吉のもとを訪れ、「秀吉を日本国王に封じる」という明の皇帝からの国書(封貢)を読み上げたことで、ついに誤魔化しが露見する。己の要求が一切通っていないばかりか、明の属国扱いされたことに激怒した秀吉は講和を破棄し、1597年(慶長2年)に約14万の軍勢で再出兵を命じた。これが慶長の役である。二度目の出兵では明の征服よりも朝鮮半島南部の恒久的な領土化(割譲)が主目的とされ、日本軍は南海岸沿いに倭城(日本式の城郭)を築き、鼻削ぎ(討ち取った首の代わりに鼻を削いで塩漬けにして送る軍功確認)など、より苛烈な破壊と略奪が行われた。
戦争の終結と東アジアに与えた歴史的意義
1598年(慶長3年)8月、豊臣秀吉が伏見城で病死したことで、戦争継続の意義は完全に失われた。徳川家康ら五大老・五奉行の決定により、日本軍は全軍撤退を開始し、7年間にわたる泥沼の戦争は終結した。
この朝鮮出兵は、東アジア情勢に甚大な影響を及ぼした。日本では、莫大な戦費と兵力を消耗した大名たちが財政的・軍事的に疲弊した。さらに、最前線で戦った加藤清正や福島正則ら「武断派」と、後方支援や講和交渉を担当した石田三成や小西行長ら「文治派」との間で深刻な内部対立が生じ、これが豊臣政権の崩壊と徳川家康の覇権(関ヶ原の戦い)を招く直接的な要因となった。
一方、主戦場となった朝鮮は国土が荒廃し、膨大な人命が失われたことで、長期にわたる深い反日感情が根付くことになった。また、大軍を派遣した明も国家財政が破綻寸前となり、国力低下の隙を突いて満州地方で女真族(のちの清)が台頭する契機となった。なお、文化的な側面として、撤退時に日本の大名たちが連れ帰った李参平などの朝鮮人陶工たちによって、有田焼や薩摩焼、萩焼など、日本の陶磁器産業が飛躍的な発展を遂げた点も重要である。そのため、この戦争は一部で「やきもの戦争」とも称される。