高山国(台湾) (こうざんこく)
【概説】
安土桃山時代における日本での台湾の呼称。豊臣秀吉が東アジア規模での覇権確立を目指すなかで、服属と入貢を要求する使者を派遣した対象地域である。
「高山国」の呼称と秀吉の対外野心
「高山国(こうざんこく)」とは、16世紀末の日本において台湾を指した言葉である。この呼称は、台湾南部の地名である「打狗(タカオ、現在の高雄)」が転訛して「タカサゴ(高砂)」となり、それに「高山」の字が当てられたことに由来するとされる。のちの江戸時代には「高砂国」とも呼ばれるようになった。
全国統一を成し遂げた豊臣秀吉は、その軍事力を背景に東アジア・東南アジア諸国を自らの支配下に置く、あるいは朝貢(入貢)させるという誇大な対外構想を抱いていた。その矛先は朝鮮(文禄・慶長の役)にとどまらず、スペイン領ルソン(フィリピン)やポルトガル領インド、そして台湾(高山国)にも向けられたのである。
原田孫七郎の派遣と「高山国王」宛ての招諭状
文禄2年(1593年)、豊臣秀吉は長崎の商人である原田喜右衛門の配下(または一族)である原田孫七郎を、高山国へ服属を促す使者として派遣した。孫七郎が携えた秀吉の書状(高山国宛て招諭状)には、日本が朝鮮を征服しつつある武威を示し、高山国が日本に朝貢しなければ軍勢を派遣して討伐する、という威嚇的な内容が記されていた。
しかし、当時の台湾には統一された国家や「高山国王」に相当する絶対的な権力者は存在せず、さまざまな先住民族(原住民)の部族が各地に割拠している状態であった。そのため、原田孫七郎は交渉を行うべき相手を見つけることができず、秀吉の意図した服属交渉は完全に失敗に終わった。
東アジア情勢における台湾の意義とその後への影響
豊臣秀吉による高山国へのアプローチは、当時の明による海禁政策(私的な海外渡航や交易の禁止)と密接に関わっている。当時の台湾は、中国大陸の商人と日本の商人、さらには倭寇(後期倭寇)などが密貿易を行う拠点として注目され始めていた。秀吉の要求は、こうした海上交易網の掌握をも狙ったものであったと考えられる。
この秀吉の試み自体は不発に終わったが、日本における台湾への関心はその後も衰えなかった。江戸時代初期には、慶長14年(1609年)の有馬晴信による台湾調査や、元和2年(1616年)の長崎代官・村山等安による台湾遠征(村山等安の台湾出兵)が企てられた。これらは、日本が朱印船貿易の拠点を確保し、明との密貿易を有利に進めるための試みであり、秀吉の「高山国」交渉はその先駆的な動きとして位置づけることができる。