フランシスコ会
【概説】
イエズス会に遅れて安土桃山時代の日本へ来日し、布教活動を展開したスペイン系のカトリック托鉢修道会。
主にフィリピンを拠点として日本に進出し、民衆への医療・福祉事業を通じて信徒を増やしたが、サン=フェリペ号事件を機に豊臣秀吉による激しい弾圧を受けた。
先行するイエズス会との布教方針の対立や、背後にあるスペインとポルトガルの覇権争いは、日本の初期キリスト教史における重要な転換点となった。
スペインの進出とフランシスコ会の来日
16世紀後半の日本において、カトリックの布教活動は長らく、ローマ教皇から布教独占権を認められたポルトガル王の保護下にあるイエズス会が独占していた。しかし、1580年代以降、スペイン領フィリピン(マニラ)からの使節や商人が日本を訪れるようになると、スペイン系の修道会にも日本進出の機運が高まった。
1593(文禄2)年、フィリピン総督の外交使節として、ペドロ・バウチスタらフランシスコ会士が来日した。彼らは豊臣秀吉から外交使節としての滞在と大坂・京都への居住を許されると、それを奇貨として公然と布教活動を開始した。
イエズス会との対立と民衆救済活動
フランシスコ会の布教方針は、先行するイエズス会と鋭く対立するものであった。イエズス会が日本の文化や慣習を尊重し、大名などの支配者層へのアプローチを重視する「適応主義」をとったのに対し、フランシスコ会はヨーロッパ式の信仰様式をそのまま持ち込み、貧民や病者への直接的な救済活動を重んじる急進的な姿勢をとった。
彼らは京都に教会やハンセン病患者を収容する病院を建設し、医療・福祉活動を通じて急速に民衆の支持を集めた。このイエズス会とフランシスコ会の対立の背景には、単なる布教方針の違いにとどまらず、マカオを拠点とするポルトガルと、マニラを拠点とするスペインという、当時の世界的二大海洋帝国の国家間覇権争いが深く関わっていた。
サン=フェリペ号事件と日本二十六聖人の殉教
フランシスコ会の目立つ活動は、やがて日本の為政者の警戒を招くこととなる。1596(慶長元)年、スペインのガレオン船が土佐国(現在の高知県)に漂着するサン=フェリペ号事件が発生した。この際、船の水先案内人が「スペインはまず宣教師を派遣して信徒を増やし、彼らを内応させて領土を征服する」という趣旨の発言をしたことが秀吉の耳に入り、深刻な危機感を引き起こした。
キリスト教への警戒を強めた秀吉は直ちに禁教の姿勢を明確にし、京都や大坂にいたフランシスコ会士と日本人信徒らを捕縛した。翌1597年、バウチスタを含むフランシスコ会士6名と、日本人信徒20名が長崎で磔刑に処された。これを日本二十六聖人殉教と呼び、日本における本格的なキリシタン弾圧の端緒として歴史に刻まれている。
江戸幕府の外交とフランシスコ会の終焉
秀吉の死後、実権を握った徳川家康は、スペインとの貿易(マニラ貿易)による経済的利益や、鉱山技術の導入を強く求めたため、フランシスコ会の活動は一時的に黙認されることとなった。この時期、フランシスコ会士のルイス・ソテロは伊達政宗に接近し、1613(慶長18)年の慶長遣欧使節(支倉常長らの派遣)の実現に深く関与するなど、活発な外交的動きを見せた。
しかし、幕府権力の安定化に伴い、キリスト教が封建秩序を脅かす危険な思想であると見なされるようになると、幕府の態度は硬化した。1612年および1614年に全国的な禁教令が発布されると、フランシスコ会士も他の宣教師とともにマカオやマニラへ追放され、日本における同会の公的な活動は終焉を迎えた。