太政官札 (だじょうかんさつ)
【概説】
明治新政府が戊辰戦争の軍費調達や殖産興業資金の確保を目的に発行した、日本初の全国通用不換紙幣。新政府の財政基盤が極めて脆弱な中で流通が強行されたが、信用度が低く激しい経済混乱を招いた。
新政府の財政難と由利公正の構想
1868(慶応4)年に成立した明治新政府は、旧幕府勢力との戊辰戦争を勝ち抜くための膨大な軍費を必要としていた。しかし、当時はまだ独自の徴税機構が確立されておらず、政権の財政基盤は皆無に等しかった。この危機を打開するため、参与兼会計事務総督に就任した由利公正が、福井藩士時代に藩札を発行して財政再建を成功させた経験をもとに、全国通用紙幣の発行を提案した。
こうして1868年閏4月、新政府の最高機関である太政官の名のもとに太政官札が発行された。この紙幣は、金貨・銀貨などの正貨との引き換えが保証されない不換紙幣であり、当初は10年間の期限付きで、利子を付けて回収される計画であった。発行の実務は、政府の資金調達を担っていた三井組などの豪商(のちの開拓使兌換証券取扱店や通商司)が担当した。
不信感による価値下落と強制流通の限界
太政官札は「両」「分」「朱」の旧貨幣単位で発行されたが、市場での受け入れは極めて悪かった。当時は戊辰戦争の最中であり、新政府がいつ崩壊するかもわからない不安定な状況下で、正貨と交換できない紙幣に対する庶民や商人の警戒感は強かった。さらに、偽札が大量に出回ったことも不信感に拍車をかけた。
新政府は、太政官札の受け取りを拒否した者を厳罰に処すという強制流通策をたびたび発令した。しかし、市場では実質的な価値が暴落し、正貨に対して太政官札が大幅に割り引かれて取引される「差価」が発生した。これにより物価が急騰するインフレーションが引き起こされ、都市部を中心に経済は大混乱に陥った。これに対し、新政府は最終的に強制流通の限界を認め、1869(明治2)年には石高に応じて太政官札を強制的に割り当てるなどの方策を講じたが、信用の回復には至らなかった。
近代貨幣制度(新貨条例)への布石
太政官札の信用失墜は、国際的にも問題視された。当時、欧米列強からは不換紙幣による国内経済の混乱や外国貿易への悪影響が厳しく批判され、新政府は近代的な貨幣制度の確立を急がざるを得なくなった。大隈重信や伊藤博文らは、太政官札をはじめとする多種多様な紙幣・藩札の整理に着手する。
その結果、1871(明治4)年に新貨条例が制定され、十進法を採用した新たな貨幣単位「円・銭・厘」が導入された。太政官札は、1872年に発行された初の政府紙幣である「明治通宝」(通称:ゲルマン紙幣)などとの交換を通じて順次回収され、日本の近代的な統一貨幣制度へと統合されていくこととなった。太政官札は一時的な経済混乱を招いたものの、維新期の難局を乗り切り、のちの貨幣改革を促す歴史的な過渡期の役割を果たしたといえる。