創氏改名

1939年の朝鮮民事令改正によって実施され、朝鮮の人々に日本式の「氏」を新たに作らせ、名乗ることを強制した政策を何というか?
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★★★

【参考リンク】
創氏改名(Wikipedia)

創氏改名

1939年

【概説】
日中戦争下の1939年(昭和14年)、皇民化政策の一環として朝鮮の人々に対し、日本式の「氏」の創設と名の変更を強制した同化政策。朝鮮の伝統的な家族制度を根本から否定し、日本国家への精神的統合を図る目的で実施された。

「内鮮一体」と皇民化政策の推進

1937年(昭和12年)に勃発した日中戦争が長期化するなか、日本政府は1938年に国家総動員法を制定し、植民地である朝鮮半島からも人的・物的資源を動員する必要に迫られた。1936年に朝鮮総督に就任した南次郎は、日本内地と朝鮮は一つであるとする「内鮮一体」のスローガンを掲げ、朝鮮人の民族意識を抹殺し「天皇の赤子(せきし)」へと作り変える皇民化政策を強力に推進した。その具体策として、毎日皇居に向かって礼拝する宮城遙拝(きゅうじょうようはい)や神社参拝の強制、学校等での日本語(国語)の常用化などが行われ、その総仕上げとして導入されたのが1939年の創氏改名である。

「氏」の強制と朝鮮の家族制度の否定

朝鮮社会には古来より、父系の血統を示す「姓(せい)」と、その一族の出身地を示す「本貫(ほんがん)」を重んじる厳格な宗族制度が存在していた。夫婦別姓が原則であり、同姓同本(同じ姓と本貫を持つ者)の結婚を禁じるなど、日本の「家」制度とは全く異なる家族法が根付いていた。しかし、朝鮮総督府は1939年に「朝鮮民事令」を改正し、日本の家族制度に基づく「氏(うじ)」の概念を無理やり持ち込んだ。「創氏」とは新たに家名としての氏を定めることであり、全世帯に対し6ヶ月以内に届け出るよう法的な義務を課した。一方、「改名」は任意とされたものの、実際には行政や警察を通じた強い圧力がかけられた。

強制の実態と朝鮮社会の抵抗

総督府は「創氏改名はあくまで任意である」と建前上は説明していたが、実際には届け出を行わない者に対して過酷な制裁を加えた。非協力的な世帯には食糧や物資の配給を停止し、児童・生徒の就学拒否、公的機関での採用や手続きの拒絶など、生活のあらゆる場面で不利益を強いた。祖先から受け継いだ姓を失うことは、朝鮮の人々にとって民族的アイデンティティの剥奪と同義であり、最大の屈辱であった。そのため、自殺をもって抗議する者や、元の本貫をそのまま氏にするなどの暗号的な抵抗を示す者もいたが、生活の糧を絶たれるという事実上の強制により、最終的に全世帯の約8割が日本式の氏を届け出ることを余儀なくされた。

歴史的意義と戦後の復旧

創氏改名は、単なる名前の変更にとどまらず、被支配民族の固有の文化や歴史、家族のあり方を根底から破壊する究極の民族抹殺政策であった。この政策は、日本への同化を強要することで戦時動員を円滑に進める狙いがあったが、結果として朝鮮人の心に深い傷と日本に対する強い反発を植え付けることとなった。1945年(昭和20年)の日本の敗戦により朝鮮が日本の植民地支配から解放されると、翌1946年に米軍政庁によって「朝鮮姓名復旧令」が公布され、創氏改名によって創られた日本式の氏名は法的に無効化され、人々は本来の姓名を取り戻した。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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