ポルトガル(江戸時代における関係)

高校日本史的重要度
★★★

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ポルトガル(江戸時代における関係)

1543年〜1639年

【概説】
戦国時代鉄砲伝来以来、南蛮貿易を通じて日本と深い関係を築いたヨーロッパの国家。江戸幕府の成立後も交易を続けたが、キリスト教の布教を警戒する幕府との対立が深まり、島原の乱後の1639年に来航を全面禁止された。これにより、幕府が対外交流を独占するいわゆる「鎖国」体制が完成を見た。

南蛮貿易と江戸幕府初期の外交

ポルトガルは、1543年の種子島への鉄砲伝来と1549年のキリスト教伝来を契機に日本との関わりを持った。その後、マカオを拠点として中国産生糸と日本産銀を交換する中継貿易南蛮貿易)を展開し、莫大な利益を上げていた。1603年に江戸幕府を開いた徳川家康も、当初は貿易がもたらす富と軍需物資を重視し、ポルトガルとの関係を維持した。

家康はキリスト教の布教を黙認しつつ、長崎などを幕府直轄地(天領)として貿易の利益を独占する体制を築こうとした。しかし、ポルトガル商人生糸の価格を不当に釣り上げる問題が生じたため、幕府は1604年に糸割符制度(いとわっぷせいど)を導入した。これは、特定の日本の特権商人糸割符仲間)に生糸を一括購入させ、仲間内で分配させる仕組みであり、ポルトガル側が握っていた価格決定権を奪い、幕府による貿易統制を強化する画期的な政策であった。

オランダ・イギリスの台頭と禁教への転換

家康の晩年頃から、新教国(プロテスタント)であるオランダイギリスが日本との貿易に参入するようになった。彼らは「貿易と宗教の分離」を掲げ、キリスト教の布教を行わずに交易のみを求めた。これにより幕府は、布教と一体であった旧教国(カトリック)のポルトガルスペインに依存しなくても、西洋の兵器や物産を得ることが可能となった。

同時に、神への絶対的な服従と平等を説くキリスト教の教義が、幕府が目指す絶対的な身分秩序や封建的支配を根底から揺るがす思想として危険視されるようになった。さらに、キリシタン大名と外国人宣教師の結びつきが幕府への深刻な軍事的脅威になるという警戒感も高まり、幕府は1612年(慶長17年)に幕府直轄地に、翌年には全国に対して禁教令を出した。以降、宣教師の国外追放や信徒への過酷な弾圧が強行され、ポルトガルとの関係は急速に悪化していった。

島原の乱とポルトガル船来航の全面禁止

キリスト教への弾圧が苛烈を極める中、1637年(寛永14年)に九州で島原・天草一揆島原の乱が勃発した。過酷な年貢取り立てとキリシタン弾圧に対する農民と旧家臣の大規模な蜂起であったが、幕府はこれを「キリシタンによる国家転覆の反乱」として重く受け止めた。乱の鎮圧に多大な犠牲を払った第3代将軍・徳川家光は、キリスト教の完全排除と海外交流の厳格な遮断を決意する。

島原の乱平定後の1639年(寛永16年)、幕府はポルトガル船の日本への来航を全面的に禁止する法令(第5次鎖国令)を発布した。これにより、約一世紀にわたって続いた日本とポルトガルとの関係は完全に断絶した。翌年、通商再開を求めてマカオから来航したポルトガル使節団を処刑することで、幕府はその強硬な姿勢を内外に知らしめたのである。

「鎖国」体制の完成とその歴史的意義

ポルトガルの追放により、日本と直接交易を行うヨーロッパの国は、布教を行わないことを条件としたオランダのみとなった。1641年には、平戸にあったオランダ商館が長崎出島(本来はポルトガル人を隔離・収容するために造成された人工島)に移され、幕府が西欧との貿易や情報を完全に一元管理する体制、すなわち鎖国が完成した。

江戸時代におけるポルトガルとの断交は、単なる一国との外交問題にとどまらず、日本の対外政策が「拡張と交流」から「統制と安定」へと大きく転換したことを意味する。以後、日本はオランダ、中国(明・清)、朝鮮、琉球アイヌという限定された窓口(四つの口)を通じてのみ外部世界と関わることとなり、独自の平和と文化の成熟(パクス・トクガワーナ)を約200年にわたって享受することとなる。

最終更新:
2026年6月16日 @ 07:14

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