第5次鎖国令 (だいごじさこくれい)
【概説】
江戸幕府が3代将軍徳川家光の政権下で発令した、一連の対外制限策の総仕上げとなる法令。前年に終結した島原の乱を契機としてポルトガル船の来航を全面的に禁止した。これにより、16世紀半ばから続いた南蛮貿易が完全に途絶し、いわゆる「鎖国体制」が完成に至った。
島原の乱の衝撃とキリスト教排除の徹底
江戸幕府は、寛永10年(1633年)の第1次鎖国令(奉書船以外の海外渡航禁止)以降、段階的に対外統制を強めていた。この流れを決定づけたのが、寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱である。九州のキリシタン農民らが起こしたこの大規模な一揆は、幕府に大きな衝撃を与えた。
幕府は、キリスト教が領主に対する反乱を正当化する危険な思想であるとの認識を強め、その禁教政策を極限まで推し進めることとなった。当時、キリスト教宣教師の潜入を実質的に支援していると疑われていたのがポルトガルであったため、幕府はポルトガルとの関係を完全に断絶させる決断を下したのである。
ポルトガル船来航禁止と貿易体制の再編
1639年(寛永16年)に発令された第5次鎖国令は、ポルトガル船の来航を全面的に禁止し、もし来航した場合は船を破却し乗組員を死罪に処すという極めて厳しい内容であった。これにより、長崎の人工島である出島は一時的に空き地となった。
ポルトガル排除後の欧州貿易の担い手として、幕府はキリスト教の布教を行わないことを誓約したオランダを選択した。1641年、幕府は平戸にあったオランダ商館を出島に移転させ、対外貿易の窓口を長崎に一本化した。ここに、対オランダ・対中国(唐船)に限定された長崎貿易の独占体制が確立した。
「鎖国」の完成とその歴史的意義
第5次鎖国令の国内発布をもって、一般に「鎖国」と呼ばれる状態が完成したとされる。しかし、これは日本が完全に世界から孤立したことを意味するわけではない。幕府はオランダや中国との長崎口での交易を維持したほか、対馬藩を通じた朝鮮(朝鮮遣使)、薩摩藩を通じた琉球、松前藩を通じたアイヌとの交易という「四つの口」を確保していた。
歴史的な意義として、第5次鎖国令による体制完成は、幕府が国際関係と貿易の利潤を自らの統制下に置き、キリスト教の流入を防ぐことで、将軍を頂点とする幕藩体制の対外的な正統性を確立・維持するための軍事外交政策であったと評価されている。