平戸

肥前国の松浦氏の拠点で、ポルトガルやスペインの船が来航して初期の南蛮貿易の中心となった港町はどこか?
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平戸

【概説】
肥前国(現在の長崎県)北西部に位置する港町。16世紀半ばにポルトガル船が来航して以降、初期の南蛮貿易の拠点として繁栄を極めた。江戸時代初期にはオランダやイギリスの商館も設置されたが、幕府の鎖国政策により貿易機能が長崎に移され、国際港としての歴史を終えた。

西海の水軍拠点から南蛮貿易の舞台へ

平戸は肥前国松浦郡に属し、九州本土と平戸海峡を隔てた平戸島に位置する天然の良港である。古くは遣唐使船の寄港地となり、日宋貿易などでも重要な役割を果たした。中世には水軍として名を馳せた松浦党(まつらとう)の拠点となり、次第に東シナ海における海上交通の要衝としての地位を固めていった。

1550年、平戸の領主であった松浦隆信(まつらたかのぶ)の招きにより、ポルトガル船が初めて平戸に入港した。同年にはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルも布教のために訪れており、平戸は日本におけるキリスト教布教と南蛮貿易の最初期の重要拠点となった。鉄砲や火薬、生糸などがもたらす莫大な富は、戦国大名としての松浦氏の勢力拡大を大きく支えた。しかしその後、ポルトガル商人や宣教師と領主側との間で宗教的・経済的な摩擦が生じると、ポルトガル船の主たる寄港地は大村氏の領内である横瀬浦や、のちの長崎へと次第に移っていくこととなる。

オランダ・イギリス商館の設置と朱印船貿易

ポルトガル船の寄港が途絶えがちになった後も、平戸が再び国際貿易の表舞台で脚光を浴びたのは、江戸時代初期のことである。1609(慶長14)年、オランダの船が平戸に入港し、江戸幕府から朱印状を得てオランダ商館を開設した。続いて1613(慶長18)年には、ジョン・セーリスが率いるイギリス船も来航し、徳川家康の外交顧問として活躍していたイギリス人航海士ウィリアム・アダムス(三浦按針)の尽力もあってイギリス商館が設置された。

これにより平戸は、幕府が推進する朱印船貿易の拠点として、またプロテスタント国である紅毛人(オランダ人・イギリス人)との交易の中心地として再び活況を呈した。国内外の商人や船乗りが行き交い、当時の平戸は「西の都」と称されるほどの異国情緒あふれる繁栄を謳歌した。

鎖国政策の進展と国際貿易港としての終焉

しかし、平戸の繁栄は長くは続かなかった。東アジアにおけるオランダとの厳しい覇権争いに敗れたイギリスは、1623(元和9)年に自ら商館を閉鎖して日本から撤退する。さらに、幕府がキリスト教の禁教の徹底と貿易統制を目的とした鎖国政策を推し進めると、平戸の運命は決定的なものとなった。

1639(寛永16)年のポルトガル人追放に続き、1641(寛永18)年、幕府は「商館の建物に西暦の年号が刻まれている」ことを口実に、平戸のオランダ商館を破壊させ、長崎の出島へと強制的に移転させた。幕府の直轄地(天領)である長崎に貿易を集中管理させるための措置であった。この出島移転をもって、約1世紀にわたって日本の対外窓口として栄えた平戸の、国際貿易港としての歴史は幕を閉じることとなった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 1639年にポルトガル船の来航を全面的に禁止し、鎖国体制を完成させた法令を一般に何と呼ぶか。
Q. 明治新政府が、昌平学校・開成学校・医学校の3校を統合して設立した最高教育機関は何か?
Q. 北方領土4島のうち、歯舞・色丹と異なり、ソ連側が日ソ共同宣言の段階で返還に応じず領有権の対立が続いた2つの島はどこか?