出島
【概説】
江戸時代に長崎港内に築造された扇形の人工島。幕府の対外政策の一環として、当初はポルトガル人、のちにオランダ人を収容し、貿易の厳格な管理とキリスト教の流入を防ぐための隔離施設として機能した。約200年にわたり、日本における唯一の西洋との公式な窓口であった。
出島の築造とポルトガル人の収容
江戸幕府は成立当初からキリスト教の禁教政策を進め、徐々に対外貿易の統制を強化していった。その一環として、長崎市中に雑居していたポルトガル人を隔離し、密貿易や布教活動を防止する目的で、1634年(寛永11年)から長崎港内に人工島の築造が開始された。長崎の有力な町人25人の出資によって1636年(寛永13年)に完成したのが出島である。面積は約3969坪(約1.5ヘクタール)で、扇形をしており、本土とは一本の橋でのみ結ばれていた。
完成当初、出島にはポルトガル人が収容され、日本人の出入りは厳しく制限された。しかし、翌1637年に島原の乱が勃発すると、幕府はポルトガル人が背後で糸を引いていると警戒を強め、1639年(寛永16年)にポルトガル船の来航を全面的に禁止した。これによりポルトガル人は日本から追放され、完成したばかりの出島は一時的に無人状態となった。
オランダ商館の移転と「鎖国」体制の完成
出資者である長崎の町衆たちは、出島が無人となったことで多額の投資の回収が困難となり、幕府に救済を求めた。一方、幕府も西欧諸国で唯一貿易を許可していたオランダの動向を監視しやすい場所へ置くことを望んでいた。そこで1641年(寛永18年)、平戸にあったオランダ東インド会社(VOC)の商館を出島に移転させた。
これ以降、オランダ人は出島に押し込められ、長崎奉行の厳格な監視下に置かれることとなった。オランダ人の本土への立ち入りは原則として禁止され、例外はオランダ商館長(カピタン)による江戸参府などに限られた。出島へのオランダ商館移転をもって、日本人の海外渡航禁止(1635年)とあわせ、江戸幕府によるいわゆる「鎖国」体制が完成したと評価される。
貿易と西洋情報・蘭学の窓口として
出島における日蘭貿易では、初期には生糸や絹織物などが輸入され、日本からは銀や銅が輸出された。18世紀以降は、日本の金銀流出を防ぐための定高貿易法や海舶互市新例(新井白石による正徳の治)などが制定され、貿易額や来航船数は段階的に制限されていった。
また、出島は単なる貿易拠点にとどまらず、西洋の近代的な学問や技術、世界情勢を知るための極めて重要な情報窓口であった。商館長が幕府に提出を義務付けられたオランダ風説書は、幕府首脳が欧州の動向や海外情勢を把握する貴重な情報源となった。さらに、エンゲルベルト・ケンペル、カール・ツンベルク、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(出島の三学者と呼ばれる)といった優れた学者が船医などとして出島に滞在し、日本の自然や文化をヨーロッパに紹介すると同時に、日本の知識人に医学や植物学などの西洋科学(蘭学)をもたらす発信源ともなった。
開国に伴う役割の終焉と現在
19世紀半ば、ペリー来航を契機として1854年に日米和親条約が結ばれ、日本の「鎖国」は終わりを告げた。さらに1858年の安政の五カ国条約(日蘭修好通商条約を含む)の締結によって、翌1859年に長崎が開港されると、オランダ人は出島以外の外国人居留地にも住むことができるようになり、出島はオランダ人専用の隔離・貿易施設としての歴史的役割を終えた。
その後、明治期に入ると港湾改良工事や周辺の埋め立てが進み、出島は陸地の一部となって特徴的な扇形の輪郭を失った。しかし、近代日本が西洋と結びつく唯一の架け橋であったという歴史的意義は極めて大きく、現在は長崎市によってかつての扇形の地形と建造物を復元する大規模な事業が進められ、幕末期の姿を取り戻しつつある。