草壁皇子

重要度
★★

【参考リンク】
草壁皇子(Wikipedia)

草壁皇子 (くさかべのおうじ)

662年〜689年

【概説】
天武天皇と鸕野讚良皇女(後の持統天皇)との間に生まれた皇太子。天武・持統による直系王統(天武嫡流)の象徴として期待されたが、皇位に就くことなく28歳で病死した悲劇の皇子である。

天武・持統嫡流としての誕生と皇太子擁立

草壁皇子は、天武天皇と、天智天皇の娘である鸕野讚良皇女という、当時の最高権力者にして最有力な血統を両親に持って生まれた。672年の壬申の乱を経て即位した天武天皇は、皇族中心の強力な中央集権体制(皇親政治)を推進。その中で、父母双方の出自の高さから、草壁皇子は数ある天武天皇の皇子たちの中でも正当な後継者として最有力視された。681年には正式に皇太子に立てられ、次代の天皇としての地位を確固たるものとした。

大津皇子の変と即位の遅延

686年に天武天皇が崩御した際、即位に向けた順調な道が用意されていたはずの草壁皇子だったが、大きな政変に直面する。文武両道に優れ、人望も厚かった異母弟の大津皇子が、天武の死の直後に謀反の疑いをかけられて自害へと追い込まれたのである。この大津皇子の変は、草壁皇子の王位継承を確実にするため、母である鸕野讚良皇女が主導した政治的粛清であったと考えられている。大津の死により草壁皇子のライバルは排除されたものの、この凄惨な政争やその後の政治的混乱が影響したためか、草壁皇子は即位の儀を行うことができず、服喪期間中の689年に28歳の若さで病没した。

草壁皇子の死がもたらした歴史的影響

草壁皇子の急逝は、天武朝が進めていた王統の直系継承プランを大きく揺るがした。未亡人となった鸕野讚良は自ら即位して持統天皇となり、草壁の遺児である珂瑠皇子(後の文武天皇)が成長するまでの「中継ぎ」として政務を執ることとなった。持統天皇は、草壁皇子の血統(天武・持統嫡流)のみが皇位を継承する体制を正当化するため、藤原不比等らと連携して大宝律令の制定や藤原京への遷都といった律令国家の形成を急ピッチで進めた。草壁皇子自身の即位は叶わなかったものの、彼の死は、日本の古代天皇制がそれまでの「兄弟継承」から「直系継承」へと移行する決定的な契機となった。

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