持統天皇 (じとうてんのう)
【概説】
天武天皇の皇后で、夫の死後に即位し、飛鳥浄御原令の施行や藤原京への遷都などを行った第41代天皇。天武天皇の遺志を継いで中央集権的な国家体制の構築を強力に推し進め、日本の律令国家を完成へと導いた古代史上屈指の政治指導者である。
天智天皇の皇女としての生い立ちと壬申の乱
持統天皇は、645年(大化元年)に中大兄皇子(後の天智天皇)の娘として生まれた。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘である遠智娘(おちのいらつめ)であり、名を鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)という。13歳の時、父の同母弟である大海人皇子(後の天武天皇)の妃となった。
671年に天智天皇が崩御すると、大海人皇子と天智天皇の息子である大友皇子との間で後継者争いが勃発し、翌672年に壬申の乱が起きた。この際、鸕野讚良皇女は夫の大海人皇子に従って吉野から東国へと脱出し、苦難を共にしながら反乱の勝利を支えた。壬申の乱を勝ち抜いた大海人皇子は天武天皇として即位し、彼女は皇后に立てられた。『日本書紀』には「皇后常に侍宴し、天下の政を言(まう)したまふ」と記されており、彼女が単なる配偶者にとどまらず、天武天皇と共同統治を行うほどの政治的影響力を持っていたことが伺える。
称制の開始と大津皇子の粛清
天武天皇の治世において、皇后(持統)は自身が生んだ草壁皇子を次期天皇にすべく尽力した。681年には草壁皇子が皇太子に立てられたが、686年に天武天皇が崩御すると、皇后はただちに即位することなく、天皇の権行使を代行する称制(しょうせい)という形で政務を執った。
この称制期間中、草壁皇子の最大のライバルと目されていたのが、同じく天武天皇の皇子で人望も厚かった大津皇子であった。持統は天武天皇の死後わずか1ヶ月足らずで、大津皇子を謀反の罪で捕らえ、自死へと追いやった。これは愛息である草壁皇子の即位を確実なものにするための非情な粛清であったと考えられている。しかし、その草壁皇子も即位を果たせぬまま、689年に28歳の若さで病死してしまうという悲劇に見舞われた。
即位と律令国家建設の推進
草壁皇子の早世により、持統は草壁の遺児である軽皇子(後の文武天皇)が成長するまでの間、自らが天皇として立つことを決意し、690年に正式に即位して持統天皇となった。彼女の治世の最大の目的は、亡き夫・天武天皇が構想した中央集権的な律令国家を完成させることであった。
即位に先立つ689年には、天武天皇の代から編纂が進められていた飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を施行し、国家運営の法的な土台を整備した。即位直後の690年には、戸籍である庚寅年籍(こういんねんじゃく)を作成している。これは人民を国家が直接把握し、班田収授法を本格的に実施するための極めて重要な施策であった。
さらに694年には、日本史上初となる条坊制(碁盤の目状の都市区画)を備えた本格的な都城である藤原京への遷都を断行した。飛鳥の地から新都への移転は、天皇を中心とする新しい国家の威容を国内外に示すものであった。
日本初の上皇(太上天皇)と大宝律令の完成
697年、持統天皇は成長した孫の軽皇子に譲位し(文武天皇)、自らは日本史上初の太上天皇(上皇)となった。譲位後も彼女は文武天皇の後見役として実権を握り続け、新天皇を支えた。持統上皇の最大の功績の一つは、刑法(律)と行政法(令)を統合した本格的な法典である大宝律令の編纂を主導したことである。刑部親王や藤原不比等らによって編纂されたこの法典は701年(大宝元年)に完成し、ここに日本の律令体制は確立した。
また、持統天皇の治世は、柿本人麻呂ら宮廷歌人が活躍した時代でもある。人麻呂が詠んだ和歌の中で、天皇は「現人神(あらひとがみ)」として高らかに讃えられた。持統天皇は、法制度の整備(律令)と権威の神格化という両輪をもって、天皇を中心とする強固な国家体制を作り上げた。703年に58歳で崩御した際、彼女の遺体は天皇として初めて火葬され、天武天皇の陵に合葬された。夫の遺志を受け継ぎ、日本という国家の礎を築き上げたその足跡は、古代史において比類のない輝きを放っている。