庚寅年籍 (こういんねんじゃく)
【概説】
飛鳥時代の690年(庚寅の年)、持統天皇の治世において、前年に施行された飛鳥浄御原令に基づいて作成された戸籍。班田収授の法を本格的に実施するための基本台帳となり、以後、律令制における戸籍編成の基準となった。
飛鳥浄御原令の施行と造籍の背景
大化の改新以降、古代の日本(倭国)は唐や新羅などの東アジア情勢に対応するため、天皇を中心とする強力な中央集権国家の建設を急いだ。天武天皇によって着手された律令編纂事業は、その死後に皇后であった持統天皇に引き継がれ、689年に飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)として結実する。この令に基づいて翌690年に全国規模で作成されたのが庚寅年籍である。
当時の政府にとって、国家の財政基盤となる調や庸などの税を確実に徴収し、さらに防人や兵士を徴発するためには、全国の個々の民衆(人身)を直接把握することが不可欠であった。庚寅年籍は、まさに国家が民衆を「戸」に編成し、個人の年齢や性別、身分を把握するための国家的な人口調査台帳の役割を果たしたのである。
庚午年籍との違いと「六年一紀」の原則
庚寅年籍の20年前である670年(天智天皇の時代)には、日本最古の全国的な戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)が作成されている。庚午年籍は「氏姓(うじかばね)の根本台帳」として、個人の身分保障や氏姓の混乱を防ぐために作成され、のちに紛失を防ぐため「永久保存」の扱いとされた。
これに対し、庚寅年籍は税制や土地制度の運用を主目的としていた。そのため、土地の班給や税の再計算に対応できるよう、一定の期間ごとに戸籍を更新する必要が生じた。庚寅年籍を起点として、以後「六年一紀」(6年ごとに戸籍を新調する)という原則が確立され、このサイクルは後の大宝律令や養老律令にも受け継がれることとなった。
班田収授の実施と律令国家の基盤確立
庚寅年籍の作成により、政府は誰がどこに住み、何歳であるかを客観的に把握できるようになった。これにより、性別や年齢、身分(良民・賤民)に応じて田地を与える班田収授法が、初めて全国規模で実施可能となった。
戸籍によって個人の年齢と身分が確定され、それに基づく口分田の班給と、それに対応する租・調・庸・兵役の徴収という一連の律令支配体制が実質的に機能し始めたのである。この庚寅年籍による民衆支配の確立は、701年の大宝律令制定へと至る、日本古代国家形成における重要な分水嶺となった。