六年一造 (ろくねんいっちょう)
【概説】
律令制下において、人民の把握と税の徴収を目的に、6年ごとに全国の戸籍を新しく作成・更新した原則。大化の改新以降の律令国家建設期に整備され、班田収授法を機能させるための基盤となった最重要制度の一つである。
国家による個別人身支配の基盤
律令制下の古代日本において、天皇を中心とする中央集権国家を維持するためには、全国の人民と土地を直接支配する公地公民制の確立が不可欠であった。その具体的な人身支配の手段として導入されたのが戸籍制度であり、その基本原則が「六年一造」である。
戸籍の編纂は、持統天皇期の690年に作成された庚寅年籍(こういんねんじゃく)によって実質的に定着した。戸籍には、各戸を構成する家族の氏名、年齢、性別、身分などが詳細に記録され、これにより国家は個々の人民を正確に把握し、税役(租・庸・調や防人などの軍役)を課す基礎データとした。作成された戸籍は3部コピーされ、中央(中務省)、国(国衙)、郡(郡衙)でそれぞれ保管され、当初は30年間(5回分)の保存義務が課されていた。現存する最古の戸籍として知られる702年(大宝2年)の「筑前国嶋郡戸籍」などは、この制度が地方まで行き届いていたことを示す貴重な史料である。
班田収授法との密接な連動
六年一造の原則は、律令制の根幹である土地分配制度、すなわち班田収授法と密に結びついていた。班田収授法では、6歳以上の良民・奴婢に対して生存中の耕作権として口分田(くぶんでん)が与えられ、死亡時には国家に返還させることが定められていた。この「6歳以上」という基準は、戸籍が6年に一度更新される周期と完全に一致している。
日本の手本となった唐の律令制では、戸籍は「三年一造」であった。しかし、当時の日本の行政能力や交通事情を考慮すると、3年ごとの更新は実務的な負担が大きすぎた。そのため、日本の律令国家は実態に合わせてこれを「六年一造」へと緩め、班田の実施サイクル(6年に1度)と同調させる合理的なシステムを構築したのである。これにより、戸籍の更新と同時に、全国規模での確実な土地の再分配と回収が担保される仕組みとなっていた。
偽籍の横行と制度の崩壊
奈良時代から平安時代初期にかけて機能した六年一造の原則であったが、次第に農民たちの抵抗によって機能不全に陥っていく。当時、重い税(庸や調、兵役など)は主として成人男性(正丁)に課されていたため、農民たちは税負担を逃れるために、戸籍上の性別を「女」と偽って申請する偽籍(ぎせき)を行うようになった。また、土地を離れて行方をくらます浮浪や逃亡も相次いだ。
この結果、戸籍に記載された帳簿上の数字と、地方の実際の人口動態が著しく乖離することとなり、班田収授の実施は極めて困難となった。9世紀後半の陽成天皇期を最後に班田の実施は中絶し、それに伴って六年一造による戸籍の作成も意味をなさなくなり、形骸化していった。国家の支配体制は、個々の人民を対象とする人身支配から、名(みょう)という土地・課税単位を対象とする支配(名体制)へと移行し、中世社会への歩みを進めることとなる。