相沢事件

1935年8月、皇道派の中佐が統制派の中心人物である陸軍省軍務局長を斬殺し、陸軍内の派閥抗争が表面化した事件を何というか?
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重要度
★★

【参考リンク】
相沢事件(Wikipedia)

相沢事件 (あいざわじけん)

1935年

【概説】
1935年(昭和10年)8月12日、陸軍省内で皇道派の相沢三郎中佐が、統制派の中心人物であった永田鉄山軍務局長を斬殺した暗殺事件。陸軍内部の派閥対立が極限に達していたことを露呈し、翌年の二・二六事件へ至る決定的な契機となった事件である。

陸軍内部の深刻な派閥抗争と真崎教育総監の更迭

昭和初期の日本陸軍は、思想や国家改造の方向性をめぐって皇道派統制派という2つの大きな派閥に分裂していた。荒木貞夫や真崎甚三郎を中心とする皇道派は、天皇親政による国家改造(昭和維新)と精神主義を重んじ、北進論(対ソ連戦)を主張した。これに対し、永田鉄山や東条英機らを中心とする統制派は、高度国防国家の建設に向けて軍主導の計画的・組織的な国家総動員体制の構築を重視し、陸軍内部の規律統制を優先した。

両派の対立は、1934年の陸軍士官学校事件や、皇道派による怪文書の流布などを通じて先鋭化していった。こうした中、1935年7月に統制派の主導により、皇道派の精神的支柱であった真崎甚三郎教育総監が更迭される事態が発生した。これにより皇道派の若手将校らの不満は極限に達し、更迭の黒幕と目された統制派の実力者、永田鉄山軍務局長への憎悪が募ることとなった。

白昼の陸軍省で起きた暗殺劇

真崎の更迭に憤激した熱烈な皇道派信奉者であった相沢三郎陸軍中佐(当時、台湾歩兵第1連隊付)は、永田鉄山を「国賊」とみなして排除することを決意した。1935年8月12日午前、相沢は東京・三宅坂の陸軍省に出向いて軍務局長室に乱入し、執務中であった永田鉄山少将を軍刀で斬殺した。同席していた東京憲兵隊長も負傷する凄惨な事件であった。

軍の中枢である陸軍省において、現役の将校が上官を白昼堂々殺害するという前代未聞の不祥事は、当時の社会に大きな衝撃を与えた。現役軍人による規律の乱れとテロリズムの蔓延が、軍の内部にまで深く及んでいることが明白となったのである。

二・二六事件への道標となった歴史的意義

相沢事件の歴史的意義は、これが単なる突発的なテロにとどまらず、翌1936年2月に発生する二・二六事件の直接的な導火線となった点にある。事件後の相沢の軍法会議は公開裁判とされ、相沢やその弁護人は自らの行動を「天皇の統帥権を侵す不義の徒を排した正義の挙」として主張した。この裁判は皇道派の青年将校たちを著しく刺激し、彼らに「もはや合法的な手段では国家改造は不可能であり、武力蜂起しかない」という危機感と決意を抱かせることとなった。

結果として、相沢の公判中に青年将校らによる未曾有のクーデター未遂事件である二・二六事件が勃発することとなる。さらに事件後、陸軍は皇道派を粛清して統制派が主導権を握り、軍部の大臣現役武官制の復活などを通じて政治への発言力を急速に強めていくことになった。相沢事件は、軍部が暴走しファシズム体制へと傾斜していく昭和戦前期の決定的な分水嶺であったといえる。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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