アイヌ
【概説】
蝦夷ヶ島(現在の北海道)や樺太、千島列島などに先住し、狩猟・漁労・採集を中心に独自の文化を築いていた民族集団。13世紀の鎌倉時代頃に、それまでの擦文文化を母胎として本州の和人との交易などを通じてアイヌ文化が成立したとされる。日本列島におけるもう一つの歴史と文化を形成した重要な先住民族である。
アイヌ文化の成立と鎌倉幕府
アイヌ文化は、北海道に展開していた農耕要素を持つ擦文(さつもん)文化を直接の母胎とし、オホーツク文化の影響や、本州の和人(日本人)社会との交易の活発化を背景に、13世紀(鎌倉時代)頃に成立したと考えられている。
和人社会からの鉄器をはじめとする物資の大量流入は、アイヌの人々の生活様式に大きな変化をもたらした。鉄器を用いた狩猟・漁労の効率化が進む一方で、土器作りや農耕は衰退し、交易品の獲得に特化した生活スタイルへと移行していったのである。鎌倉幕府は蝦夷ヶ島を直接支配下においたわけではないが、津軽地方を拠点とする豪族・安藤(安東)氏を「蝦夷沙汰職(えぞさたしき)」などの役職に任じ、和人とアイヌとの交易の管理や取り締まりを行わせていた。
和人との交易と生じる摩擦
中世を通じて、アイヌは和人社会との交易を活発に行い、サケやコンブなどの海産物、アザラシやヒグマの毛皮、さらに大陸との交易(山丹交易)で得た蝦夷錦(えぞにしき)などを提供した。その見返りとして、鉄器、漆器、木綿、米などの生活物資を獲得していた。
しかし、和人の蝦夷ヶ島南部への進出が進むにつれて、両者の間には激しい摩擦が生じるようになる。鎌倉時代末期には安藤氏の内紛に絡んでアイヌが蜂起した「蝦夷大乱(津軽大乱)」が勃発し、室町時代の1457年には、和人の不当な取引や圧迫に対する不満から、アイヌの首長であるコシャマインが蜂起するコシャマインの戦いが起きた。この反乱は蠣崎(かきざき)氏(のちの松前氏)によって鎮圧され、和人による道南地域の支配が固定化していく契機となった。
江戸時代の搾取構造とアイヌの抵抗
江戸時代に入ると、松前藩は徳川幕府からアイヌとの交易の独占権を公認された。初期の「商場知行制(あきないばちぎょうせい)」から、和人商人に交易権を委託する「場所請負制(ばしょうけおいせい)」へと移行する中で、商人によるアイヌへの搾取や過酷な労働の強制が深刻化していった。
こうした不平等な関係に対し、1669年に日高地方の首長シャクシャインが全島規模の蜂起を起こした(シャクシャインの戦い)。しかし、鉄砲などの武力で勝る松前藩によって鎮圧され、アイヌは松前藩への絶対的な服従を強いられることとなった。その後、1789年にも過酷な労働に耐えかねたアイヌによるクナシリ・メナシの戦いが起きたがこれも鎮圧され、アイヌの社会と独自の生活基盤は和人社会の経済システムによって深く侵食されていった。
近現代の同化政策と文化の復権
明治維新後、新政府によって蝦夷地は「北海道」と改称され、本格的な開拓が開始された。これに伴い、アイヌの人々は生活の基盤であった土地を奪われ、和人風の氏名の強要やアイヌ語の使用禁止、独自の風習の禁止など、強力な同化政策が推し進められた。1899年に制定された北海道旧土人保護法は、農耕の奨励などを名目としていたが、実態としてはアイヌの伝統的な狩猟・漁労を中心とする生活を破壊し、貧困と差別の構造を固定化するものであった。
第二次世界大戦後も長く苦難の歴史が続いたが、アイヌの人々による粘り強い権利回復運動の結果、1997年にアイヌ文化振興法が制定されて旧土人保護法が廃止された。さらに2019年には「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律(アイヌ新法)」が成立し、日本政府によって初めてアイヌが日本の「先住民族」として法的に明記され、独自の言語や文化の継承、そして尊厳の回復に向けた新たな歩みが進められている。