淀川 (よどがわ)
【概説】
京都と大坂という近世日本を代表する二大都市を結ぶ物流・交通の大動脈。江戸時代には過書船や三十石船が往来し、上方の経済と文化の発展を支える水上ハイウェイとして機能した。
「天下の台所」と「都」を結ぶ水上交通の要衝
江戸時代、日本最大の商業都市であり「天下の台所」と称された大坂と、千年の都として政治・文化の中心であり続けた京都。この二大都市を最短距離で結び、大量の物資や人々を運んだのが淀川である。滋賀県の琵琶湖から流れ出る宇治川、京都盆地を流れる桂川、三重・奈良方面から流れる木津川の三河川が山崎・八幡付近で合流して淀川となり、大阪湾へと注ぐ。この地理的条件は、陸路(京街道など)に比べてはるかに安価で大量輸送が可能な天然のインフラを提供した。
豊臣政権下における伏見城の築城と伏見港の整備を経て、江戸時代に入ると淀川の水運は飛躍的に発達した。大坂に集積した全国の年貢米や特産物を京都へ送り、逆に京都の精巧な工芸品や諸文化を大坂・西日本へ流通させるという、双方向の経済活動がこの川を軸に展開された。
過書船と三十石船による物流・旅客の分業
淀川の往来を支えたのは、公的に認められた特権を持つ様々な通船であった。貨物輸送の主力を担ったのが過書船(かしょせん)である。過書船は、豊臣秀吉や徳川幕府から「過書(通行免許状)」を与えられた特権的な商船であり、淀川独自の関所や津(港)における税を免除され、上方の物資輸送を独占した。米や酒、油、塩などの生活必需品がこの船によって大量に運ばれた。
一方、旅人の主要な足となったのが旅客専用の三十石船(さんじっこくぶね)である。伏見港と大坂の八軒家(はちけんや)の間、およそ40キロメートルを昼夜を問わず運航した。下りは約半日、上りは竿や網で引くため1日近くを要したが、旅人にとっては非常に快適なルートであった。この三十石船の乗客を相手に、「酒くらわんか、餅くらわんか」と乱暴な口調で飲食物を売りつけるくらわんか船の存在は、上方落語や浮世絵、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にも描かれ、江戸時代の庶民文化を象徴する風物詩となった。
治水対策と淀川の管理
淀川は多大な富をもたらす一方で、ひとたび大雨が降れば流域に甚大な被害をもたらす「暴れ川」の側面も持ち合わせていた。特に大坂の都市防衛と通船の安全確保は幕府にとっての死活問題であり、江戸時代を通じて大規模な治水工事が繰り返された。淀川沿いに築かれた文禄堤(ぶんろくづつみ)の維持や、下流の河口部に堆積する土砂の浚渫(川ざらい)は、大坂町奉行所や周辺諸藩の重要な職務であった。
江戸中期には、河村瑞賢による安治川の開削をはじめとする大がかりな治水・水路整備が行われ、大坂の洪水被害は劇的に減少した。こうした治水技術の向上と水路の整備が、淀川の交通機能をより安定させ、大坂を名実ともに日本最大の流通拠点へと押し上げる原動力となったのである。