史料編纂掛

帝国大学(東京大学)の文科大学内に設置され、『大日本史料』や『大日本古文書』などの歴史史料の編纂事業を行った機関は何か?
カテゴリ:
重要度
★★

史料編纂掛 (しりょうへんさんがかり)

1888年〜

【概説】
帝国大学(現・東京大学)内に設置された、日本の歴史に関する古文書や古記録などの史料を収集・編纂・刊行するための機関。近代日本における実証主義歴史学の確立と、学術的なナショナル・ヒストリーの構築において主導的な役割を果たした。

修史事業の変遷と「史料編纂掛」の誕生

明治新政府は発足当初から、国家の正統性を基礎づける正史(国史)を編纂する修史事業を重視していた。1869(明治2)年に設置された太政官史料編輯国に始まり、修史局、修史館などと名称や組織を変えながら、三条実美や岩倉具視らの主導のもとで全国から膨大な史料が集められた。しかし、国家が直接的に道徳的・政治的な歴史を叙述することへの批判や、政府の財政引き締め(松方デフレ等)の影響もあり、1888(明治21)年に修史事業は内閣から帝国大学へと移管され、同大学の古典講習科の中に「史料編纂掛」が組織された。これにより、国家主導の「正史編纂」から、大学というアカデミズムの場における「学術的な史料編纂」へと性格が大きく変化することとなった。

実証主義歴史学の導入と学問的自立

史料編纂掛の誕生は、近代日本における実証主義歴史学の確立と深く結びついている。初代編纂委員長を務めた重野安繹や、久米邦武星野恒といった学者たちは、従来のイデオロギー的な歴史観(尊皇論や儒教的道徳観など)を排し、文献を客観的に批判・検証する考証学の手法を徹底した。また、お雇い外国人ルドヴィヒ・リースがもたらしたランケ流の近代歴史学の手法もこれに融合した。1892(明治25)年には、久米邦武が発表した論文をめぐり「久米邦武筆禍事件」が起こり、神道界や政府からの圧力で久米が帝国大学教授を辞職せざるを得なくなるなど、国家のアイデンティティや皇室神話と学問的実証との間で激しい摩擦が生じた。しかし、史料編纂掛はこうした政治的圧力に直面しながらも、学問の独立と客観的な史料批判の重要性を守り抜いた。

『大日本史料』の編纂と後身への発展

1895(明治28)年、史料編纂掛は組織を改編し、それまでの歴史書の叙述(編纂)から、客観的な史料そのものを整理して刊行(出版)する方針へと転換した。これに基づき、1901(明治34)年から日本の編年体史料集の金字塔である『大日本史料』および歴史文書をそのまま収録した『大日本古文書』の刊行が開始された。これらは日本全国に散逸していた古文書や古記録を網羅的に集約・校訂したものであり、現在に至るまで日本史研究を進める上での最も基礎的かつ不可欠な文献群となっている。史料編纂掛は、1929(昭和4)年に独立した史料編纂所へと昇格し、今日でも日本歴史学における国内最高峰の研究機関として活動を続けている。

大日本史料 第十二編之六十四: 後水尾天皇 元和九年五月-同年六月

元和九年の激動期を克明に記録し、後水尾天皇を取り巻く朝廷の政治情勢を詳細に解き明かす歴史資料の決定版。

日本の中世国家 (岩波文庫 青 N 130-1)

中世国家の本質を権力構造や儀礼の側面から鋭く分析し、日本史の深層へと読者を誘う考察の書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 雑誌『女学雑誌』を創刊し、キリスト教的立場から女性の地位向上や女子教育に尽力した教育家・ジャーナリストは誰か?
Q. 明治時代に輸入されはじめ、初めは前輪が大きい「だるま型」などであったが、改良と国産化が進んで庶民の足として大普及した乗り物は何か?
Q. 足利直義に補佐されて東国へ赴き、鎌倉将軍府のトップ(将軍)となった後醍醐天皇の皇子は誰か?