琉球 (りゅうきゅう)
【概説】
江戸時代において、薩摩藩の支配下に置かれながらも中国(清)との朝貢関係を維持し続けた地域。幕府のいわゆる「鎖国」体制下における対外窓口である「四つの口」の一つとして機能し、薩摩藩による対中密貿易(抜け荷)の拠点となった。
薩摩藩による侵攻と「日中両属」体制の形成
1609年(慶長14年)、薩摩藩主の島津家久は軍勢を率いて琉球に侵攻し、中山王府(琉球王国)を降伏させた。これにより琉球は薩摩藩の事実上の支配下に置かれ、検地や貢納の義務を課されることとなった。しかし、薩摩藩および江戸幕府は琉球を完全に日本へと編入することはしなかった。琉球が中国(明、のちに清)の冊封国としての立場を失うと、中国との朝貢貿易が途絶えてしまうからである。そのため、琉球は表向きは独立した「異国」の体裁を保ちながら、内実は薩摩藩の強い統制下にあるという、極めて変則的な「日中両属」の体制が維持されることとなった。琉球国王の代替わりごとに幕府へ派遣された「謝恩使」や、将軍の代替わりごとに派遣された「慶賀使」(合わせて琉球使節と呼ばれる)は、江戸の人々に「異国」の存在を強く印象づけ、幕府の権威を高める政治的演出にも利用された。
「四つの口」としての琉球と密貿易(抜け荷)の展開
江戸幕府の対外政策(いわゆる「鎖国」)のもとで、日本は長崎(対オランダ・中国)、対馬(対朝鮮)、松前(対アイヌ)、そして薩摩・琉球(対中国)という「四つの口」を通じてのみ外の世界とつながっていた。琉球は中国から高級生糸や絹織物、薬種などを輸入し、それらを薩摩藩が買い取って日本国内に流通させることで、日本の経済循環において不可欠な役割を担った。この公認貿易の裏で、薩摩藩はさらなる巨利を得るため、幕府の目から逃れた制限外の取引、すなわち「抜け荷(密貿易)」を盛んに行った。薩摩藩は琉球を「異国」の隠れ蓑とすることで、幕府の厳しい監視をかいくぐり、中国産の物産を大量に密輸入することに成功したのである。
薩摩藩の財政再建と幕末への歴史的影響
琉球を介した交易(および密貿易)がもたらす経済的利益は、薩摩藩の財政を潤す極めて重要な財源であった。特に19世紀前半、薩摩藩主・島津斉興のもとで家老の調所広郷が推進した天保の改革において、琉球を拠点とした清との密貿易は藩の莫大な借金を完済し、莫大な蓄え(調所が残した50万両の備蓄金)を作る決定的な要因となった。この貿易によって蓄積された強大な資金力と、琉球を通じていち早く得られた海外の情報は、のちの藩主・島津斉彬による軍事の近代化(集成館事業)を可能にし、幕末期に薩摩藩が雄藩として倒幕運動を主導する原動力となった。このように琉球は、近世日本の外交・通商の要衝であっただけでなく、日本の近代化の幕開けを財政面から支えた歴史的転換点でもあった。