島津斉彬 (しまづなりあきら)
【概説】
薩摩藩の第11代藩主で、集成館事業など西洋技術の導入を推進した幕末の明君。優れた先見性により富国強兵に努めるとともに、幕政にも積極的に関与したが志半ばで急死した。彼が見出した西郷隆盛や大久保利通らは、後の明治維新において中心的な役割を果たすこととなる。
家督相続と「お由羅騒動」
島津斉彬は、薩摩藩第10代藩主・島津斉興の長男として江戸の薩摩藩邸で生まれた。曾祖父である第8代藩主・島津重豪の影響を強く受け、幼少期から西洋の学問や技術に強い関心を抱いていた。しかし、蘭癖と呼ばれた重豪の散財によって藩財政は極度に悪化しており、財政再建を優先する父・斉興や家老の調所広郷らは、開明的な斉彬が藩主になることを危惧した。さらに、斉興の側室であるお由羅の方が自らの子である島津久光の擁立を図ったことで、藩内を二分する激しい権力闘争が発生した。これがお由羅騒動(高崎崩れ)である。最終的に幕府老中・阿部正弘らの介入によって斉興は隠居に追い込まれ、1851年に斉彬は43歳でようやく第11代藩主に就任した。
集成館事業と富国強兵
藩主となった斉彬は、迫り来る欧米列強の脅威に対抗するため、直ちに藩政改革と富国強兵に着手した。その中核となったのが、鹿児島磯地区に建設された工場群を中心とする集成館事業である。ここでは反射炉が築造されて鉄製大砲の鋳造が行われたほか、造船、ガラス(薩摩切子)、紡績、陶器、写真機などの研究・製造が行われ、当時の最先端である西洋の科学技術が積極的に導入された。また、日本初の洋式軍艦「昇平丸」を建造して幕府に献上し、日本の船であることを示すために「日の丸」を日本国総船印とするよう建白したのも斉彬である。同時に能力主義に基づく人材登用も行い、下級武士であった西郷隆盛や大久保利通らを見出し、彼らが後に明治維新を牽引する原動力となった。
幕政への積極的関与と将軍継嗣問題
斉彬の視野は一藩の枠にとどまらず、日本全体の国防と政治改革に向けられていた。1853年のペリー来航による国難にあたり、老中・阿部正弘や越前藩主・松平慶永、水戸藩主・徳川斉昭らと連携し、幕政への発言力を強めた。特に第13代将軍・徳川家定が病弱で実子がいなかったことから発生した将軍継嗣問題においては、英明の誉れ高かった一橋慶喜(後の徳川慶喜)を次期将軍に推す一橋派の中心人物として暗躍した。斉彬は、養女の篤姫を近衛家の養女とした上で家定の正室として大奥に送り込み、一橋派に有利な工作を展開したが、紀州藩主・徳川慶福(後の家茂)を推す大老・井伊直弼ら南紀派との激しい政治闘争に直面することになる。
突然の死と歴史的意義
1858年、井伊直弼が大老に就任して将軍継嗣が家茂に決定し、さらに日米修好通商条約が勅許を得ないまま調印されると、斉彬はこれに強く反発した。彼は藩兵約5000を率いて上洛し、幕府に改革を迫るという大胆な出兵計画を立案した。しかし、出兵の準備を進めていた矢先の同年7月、鹿児島城下で急病に倒れ、49歳で無念の急死を遂げた。死因はコレラとする説が有力だが、毒殺説も絶えない。斉彬の死後、幕府では安政の大獄が吹き荒れ、薩摩藩の実権も父・斉興や異母弟の久光に移った。しかし、斉彬が短期間の治世でまいた近代化の種子と、彼に薫陶を受けた西郷・大久保ら有能な人材は、その後の討幕運動から明治政府の樹立に至る過程で決定的な役割を果たした。斉彬は、幕末という激動の時代において最も先見性に富んだ開明派大名として、日本の近代化の礎を築いたのである。