商人
【概説】
江戸時代において、商品の売買や流通などの商業活動に従事した人々の総称。幕府や諸藩から特権を与えられた豪商から、都市や村落を巡る零細な行商まで幅広い階層が存在した。建前上の身分制度においては最下層に位置づけられたが、貨幣経済の発展とともに莫大な経済力を握り、独自の豊かな文化を育むとともに幕藩体制そのものを変容させていった。
身分制度における建前と実態
江戸幕府が社会秩序を維持するために敷いたとされる「士農工商」の身分制において、商人は利を追求し生産活動を行わない者として、最下層に位置づけられていた。しかし、これはあくまで儒教的イデオロギーに基づく建前であった。17世紀後半以降、商品作物の栽培が普及し全国的な貨幣経済が進展すると、商人は流通・金融を掌握し、社会における実質的な力を持つようになる。諸藩の大名や旗本・御家人は、年貢米を換金して現金収入を得る必要があったため、商人の経済力に依存せざるを得なくなった。とくに江戸の札差(ふださし)や大坂の蔵元(くらもと)・掛屋(かけや)といった金融業を兼ねる有力商人は、武士階級に対して多額の貸付(大名貸)を行い、経済的に武士を圧倒する「主客転倒」の現象を引き起こした。
多様な商人階層と特権的営業
一口に「商人」といってもその階層は多様であった。頂点に立つのは、幕府や諸藩と結びついて公金取り扱いや物資調達を独占した御用商人である。三井家や住友家、鴻池家などがこれに該当する。また、都市部においては、生産地から商品を買い付ける問屋(とんや)、問屋から商品を仕入れて小売に卸す仲買(なかがい)、消費者へ売る小売という流通の分業体制が確立された。彼らは同業者組合である株仲間を結成し、幕府や諸藩に冥加金や運上金を納める見返りとして、営業の独占権(株)を公認された。一方で、こうした特権を持たず、天秤棒を担いで町々を歩き回る振売(ふりうり)や、農村を回る行商(富山の薬売りや近江商人など)といった零細な商人も数多く存在し、都市と地方の毛細血管のような流通網を形成していた。
全国市場の形成と流通革命
江戸時代は、政治の中心である江戸、商業・金融の中心として「天下の台所」と呼ばれた大坂、伝統的な手工業と文化の中心である京都という三都を軸に、全国的な市場が形成された時代でもあった。商人はこの広域経済網の主役であった。大坂には全国から年貢米や特産物が集まる蔵屋敷が立ち並び、堂島米会所では世界初ともいわれる米の先物取引が行われた。また、大量の物資を輸送するために、大坂・江戸間を結ぶ菱垣廻船や樽廻船、日本海側を回って北海道(蝦夷地)と大坂を結ぶ北前船といった海運網が整備され、これらを運営する海運業者もまた有力な商人として活躍した。
町人文化の創出と学問への貢献
商人は経済力を背景に、江戸時代の文化の強力なパトロン(支援者)にして担い手となった。17世紀末の元禄文化では、大坂や京都の上方商人を中心に、井原西鶴の浮世草子や近松門左衛門の浄瑠璃など、人間の欲望や義理人情を描く新しい文芸が花開いた。19世紀の化政文化においては、江戸の商人が中心となり、浮世絵や滑稽本といった庶民的な文化が隆盛を極めた。また、商人は実学を重んじ、読み書きそろばんを教える寺子屋の普及を後押ししたほか、18世紀には石田梅岩が提唱した心学(石門心学)のように、商人としての正当な利潤追求を肯定し、道徳的倫理と経済活動の調和を説く独自の思想も生み出された。
幕藩体制の動揺と商人の変容
江戸時代後期になると、商品経済の過熱と物価高騰に直面した幕府は、三大改革を通じて商人の統制を図った。とくに1841年(天保12年)の天保の改革では、物価上昇の原因が株仲間による流通独占にあるとして株仲間解散令が出された。しかし、これによってかえって流通システムが混乱したため、10年後には株仲間の再興を許さざるを得なかった。さらに幕末になると、農村部で力を蓄えた在郷商人(豪農商)が台頭し、既存の都市特権商人を介さずに直接取引を行うようになった。1859年の開港後は、彼らが直接生糸などを輸出港(横浜など)へ持ち込んだことで、旧来の流通機構は崩壊に向かった。こうして成長した新興商人たちは、やがて明治維新後の資本主義社会を牽引する実業家へと姿を変えていくのである。