フェリペ2世
【概説】
16世紀後半のハプスブルク家出身のスペイン国王で、同国の絶対王政最盛期を築き上げた代表的な君主。広大な海外植民地を領有して「太陽の沈まない国」を実現し、日本史においては南蛮貿易の展開や天正遣欧使節との謁見、さらには豊臣政権の対外政策に大きな影響を与えた人物である。
「太陽の沈まない国」の君主とアジア進出
フェリペ2世は父である神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)からスペイン王位を継承し、カトリックの擁護者としてヨーロッパの政治・宗教対立の中心に立った。1580年にはポルトガル王位も兼ね、両国が持っていた東西の植民地帝国を統合した。これにより、ヨーロッパ、新大陸、そしてアジアに及ぶ広大な版図を手中に収め、スペインは「太陽の沈まない国」と呼ばれる全盛期を迎えた。
アジアにおける拠点となったのが、フェリペ2世の名にちなんで命名されたフィリピン領ルソン島のマニラである。スペインはここを東アジア布教と交易の足がかりとし、日本との接触を本格化させていくこととなった。
日本との接点:天正遣欧使節との謁見
日本の歴史においてフェリペ2世の名が最も直接的に登場するのは、九州のキリシタン大名らによって派遣された天正遣欧使節との交わりにおいてである。伊東マンショや千々石ミゲルら4名の少年使節は、1584年にスペインの首都マドリード近郊のエスコリアル宮殿にて、フェリペ2世への謁見を果たした。
フェリペ2世は使節を大いに歓迎し、彼らに多大な援助と便宜を図った。これはキリスト教布教の成果を誇示するとともに、極東の未知なる国・日本との結びつきを強め、将来的な貿易や布教の権益を確保しようとする政治的・宗教的な意図が含まれていた。この謁見は、戦国・安土桃山時代の日本が、当時の世界帝国スペインの最高権力者と直接交わった極めて稀有な歴史的瞬間であった。
豊臣秀吉の警戒と対スペイン対外認識
一方で、フェリペ2世が率いるスペインの強大な軍事力とカトリック布教の勢いは、日本の天下人となった豊臣秀吉に強い警戒感を抱かせることとなった。特に1596年に土佐国に漂着したスペイン船の乗組員が、スペインはキリスト教の布教を足がかりに他国を征服してきたと放言したとされるサン=フェリペ号事件は、秀吉のキリシタンへの猜疑心を決定的なものにした。
この事件を契機に、翌年、長崎で二十六聖人殉教が引き起こされることとなる。フェリペ2世によるカトリック帝国の世界膨張政策は、間接的に日本の禁教政策を加速させ、のちの徳川幕府における「鎖国」へと向かう国際情勢の緊張関係を生み出す要因となったのである。