石津の戦い

高校日本史的重要度

【参考リンク】
石津の戦い(Wikipedia)

石津の戦い (いしづのたたかい)

1338年

【概説】
南北朝時代の1338年(延元3年/建武5年)に、和泉国石津(現・大阪府堺市)で行われた南朝と北朝(室町幕府)の合戦。南朝の主力であった奥州の旗頭・北畠顕家が、室町幕府の執事・高師直の軍勢に敗れ、戦死した戦闘である。この戦いと、同年の新田義貞の戦死により、初期南北朝内乱における南朝の軍事的優位は完全に失われることとなった。

北畠顕家の東国蜂起と西上

1336年に後醍醐天皇吉野へ逃れて南朝を創設すると、奥州(現在の東北地方)で多賀国府を拠点としていた陸奥大介の北畠顕家は、再び足利尊氏を討伐すべく西上を開始した。顕家は義良親王(のちの後村上天皇)を奉じ、東国の南朝勢力を結集しながら鎌倉を攻略、さらに東海道を西進して京へと迫った。

しかし、度重なる行軍と足利軍による幾度もの執拗な迎撃により、顕家の率いる奥州軍は次第に疲弊していった。美濃や伊勢、大和での戦闘を経て和泉国(大阪府南部)へと退いた顕家軍は、物資や兵力が困窮する中、最後の決戦に挑むこととなる。

石津の決戦と南朝の衰退

1338年5月、室町幕府の有力将軍候補であった足利尊氏の側近であり、幕府軍の事実上の総司令官である執事・高師直は、大軍を率いて和泉国石津に布陣する顕家軍を急襲した。

兵力差と疲弊によって追い詰められた顕家軍は善戦したものの、幕府軍の圧倒的な物量の前に壊滅。北畠顕家はわずか21歳で討ち死にし、南朝結集の夢は潰えた。同年には北陸地方で活動していた新田義貞越前国藤島の戦いで戦死しており、南朝は東西の二大軍事指導者を同時に失う大打撃を受け、南北朝の争いは室町幕府(北朝)側の圧倒的優勢へと傾いていくこととなった。

最終更新:
2026年8月15日 @ 10:06

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