補助艦(巡洋艦・駆逐艦・潜水艦) (ほじょかん(じゅんようかん・くちくかん・せんすいかん)
【概説】
ワシントン海軍軍縮条約で制限を免れた後、日米英の激しい建艦競争の対象となり、最終的に1930年のロンドン海軍軍縮条約で保有制限が課された艦艇。主力艦である戦艦や航空母艦を補佐し、索敵や潜水艦作戦など多角的な任務を担った。日本海軍は主力艦の劣勢を埋めるためにこれらの高性能化を図ったが、ロンドン条約による比率制限は国内で「統帥権干犯問題」を引き起こす契機となった。
ワシントン軍縮条約と補助艦建艦競争の幕開け
1921年から翌年にかけて開催されたワシントン会議において、日米英などの列強は、巨額の財政負担となっていた主力艦(戦艦・航空母艦)の保有比率を「米:英:日=5:5:3」と制限することで合意した。しかし、この時点では巡洋艦や駆逐艦、潜水艦といった「補助艦」の総トン数や保有比率の制限は見送られた。
これにより、各国は主力艦の制限によって生じた戦力の不均衡を埋めるべく、制限外であった補助艦の建造競争、いわゆる「補助艦建艦競争」へ突入した。特に日本海軍は、米国に対する主力艦の劣勢を補うため、強力な武装を持つ大型巡洋艦(重巡洋艦)や、高性能な駆逐艦・潜水艦の整備に力を注ぎ、東アジアにおける独自の軍事バランスを維持しようと画策した。
ジュネーヴの決裂からロンドン条約における保有制限へ
補助艦の急速な増強による軍事費の膨張に歯止めをかけるため、1927年にジュネーヴ海軍軍縮会議が開催されたが、巡洋艦の制限基準をめぐってイギリスとアメリカが対立し、会議は決裂した。
その後、1930年に開催されたロンドン海軍軍縮会議において、ようやく補助艦に対する制限合意が形成された。このロンドン海軍軍縮条約により、補助艦全体の保有比率は「米:英:日=10:10:6.975(約7割)」と定められた。しかし、日本海軍が国防上の生命線として主張していた「大型巡洋艦(重巡洋艦)の対米7割」は認められず、対米6割に抑え込まれ、さらに潜水艦の保有量も日米平等の現有量(約5万2700トン)で制限されることとなった。
補助艦制限がもたらした国内政治への衝撃
このロンドン海軍軍縮条約における補助艦の制限受け入れは、日本国内に激しい政治的対立を引き起こした。海軍内の強硬派(艦隊派)や野党の立憲政友会などは、海軍軍令部(作戦を司る機関)が提示した兵力要求(対米7割)を無視して内閣が条約を調印したことを、天皇の軍隊統帥権を侵害するものであるとして激しく糾弾した。これが俗に言う統帥権干犯問題である。
当時の浜口雄幸内閣は、この非難を押し切って条約を批准したものの、浜口首相は東京駅で右翼の青年に狙撃され、重傷を負う事態となった。補助艦の保有制限をめぐるこの政治的混乱は、政府の外交方針に対する軍部の不信感を決定的なものにし、後の軍部の暴走や政党政治の退潮を招く、昭和史の大きな転換点となった。