統帥権干犯問題 (とうすいけんかんぱんもんだい)
【概説】
1930年のロンドン海軍軍縮条約調印に際し、政府が海軍軍令部の反対を押し切って兵力量を決定したことは、天皇の軍隊指揮権(統帥権)を侵す憲法違反であるとする、野党や軍部、右翼などによる激しい政治的批判。この問題は、結果的に政党政治の正当性を大きく揺るがし、後の軍部による政治介入と暴走の口実を与える決定的な契機となった。
背景にある「統帥権の独立」
大日本帝国憲法において、軍事に関する天皇の大権は大きく二つに分かれていた。第11条の「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」に基づく作戦・用兵に関する権限(統帥権)と、第12条の「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」に基づく軍隊の編成や兵力量の決定に関する権限(編成大権)である。
統帥権は、内閣や帝国議会の関与を受けず、陸軍参謀本部や海軍軍令部が直接天皇を補佐する「統帥権の独立」という解釈が確立されていた。一方で、軍の編成や兵力量の決定(軍政)は国家の財政に直結するため、国務大臣(陸軍大臣・海軍大臣)が天皇を輔弼(補佐)し、内閣が責任を負う事項とされていた。統帥権干犯問題は、この両者の境界線の曖昧さを突く形で引き起こされた。
ロンドン海軍軍縮条約の調印
1930年、立憲民政党の浜口雄幸内閣は、深刻な経済不況を乗り切るための緊縮財政と、国際協調の推進を掲げ、ロンドン海軍軍縮会議に若槻礼次郎らを全権として派遣した。日本側は補助艦の保有比率を対米英7割とする要求を掲げたが、交渉の結果、約6.97割などの妥協案が提示された。
海軍省内部や政府は妥協案の受け入れに傾いたが、作戦を担当する海軍軍令部長の加藤寛治は「国防に重大な支障をきたす」として強硬に反対し、天皇に直接上奏する事態となった。しかし浜口内閣は、最終的に軍令部の反対を押し切って条約の調印を決断した。
倒閣運動と政争の具と化す「干犯」
この政府の決断に対し、野党である立憲政友会の犬養毅や鳩山一郎らは、倒閣の絶好の好機と捉えて政府を激しく攻撃した。「兵力量の決定は作戦立案(統帥)に直結するため、軍令部の同意なしに政府が条約に調印したことは、天皇の統帥権を干犯(不当に侵すこと)するものである」と主張したのである。
条約自体は最終的に枢密院の審査を経て批准されたものの、この論争は議会内にとどまらず、軍部右派や右翼団体を巻き込んだ一大政治問題へと発展した。そして同年11月、軍縮や統帥権干犯に憤激した右翼青年に東京駅で狙撃された浜口首相は重傷を負い、後に退陣と死を余儀なくされることとなった。
歴史的意義と「政党政治の自殺」
統帥権干犯問題の歴史的意義は、政党政治が自らの手で議会制民主主義の基盤を破壊した点にある。本来、軍部の政治介入を抑えるべき政党(立憲政友会)が、目先の政権奪取のために軍部の特権的地位を擁護し、「統帥権」という劇薬を政治の場に持ち込んだのである。これは後に「政党政治の自殺」とも評された。
この事件以降、軍部は「統帥権の独立」を盾にして政府の統制を公然と拒否するようになった。翌1931年に勃発する満州事変においても、軍部は政府の不拡大方針を無視して独断で軍事行動を拡大させていく。統帥権干犯問題は、日本が政党内閣の時代から軍部の独走を許す時代へと移行する、後戻りできない歴史の転換点であったと言える。