宝永大噴火 (ほうえいだいふんか)
【概説】
江戸時代中期の1707年(宝永4年)に発生した、富士山における歴史上最後にして最大規模の噴火災害。未曾有の降灰により麓の農村や江戸の都市機能に甚大な被害をもたらし、幕府の災害対応や財政政策にも大きな影響を与えた出来事である。
巨大地震との連動と噴火の推移
宝永大噴火は、1707年12月16日(宝永4年11月23日)、5代将軍徳川綱吉の治世下において発生した。この噴火の最大の特徴は、そのわずか49日前に発生した日本最大級の巨大地震である宝永地震(東海・南海・東南海連動型地震)と密接に関連している点である。地震による地殻変動がマグマ溜まりを刺激し、誘発されたと考えられている。
噴火は富士山の南東斜面(現在の宝永山付近)で発生し、激しい爆発を伴いながら大量の火山灰や軽石を放出した。溶岩流の流出はなかったものの、この時の噴火によって富士山の山腹には巨大な火口(宝永火口)が形成され、その傍らに側火山である宝永山が誕生することとなった。
江戸を襲った降灰と周辺地域の二次災害
富士山から約100キロメートル離れた将軍のお膝元である江戸にも、偏西風に乗って大量の火山灰が降り注いだ。記録によれば、江戸の町は昼間でも暗転し、人々は行灯を灯して生活せざるを得なかったという。この降灰は江戸市民に呼吸器系の疾患や精神的な恐慌をもたらし、都市機能を一時的に麻痺させた。
さらに深刻だったのは、富士山麓の小田原藩領(現在の神奈川県・静岡県一帯)における被害であった。農地は厚い火山灰(寸白)に覆われて耕作不能となり、多くの農民が飢餓に苦しんだ。さらに、降灰が周辺の河川に流入したことで川床が急激に上昇し、特に酒匂川(さかわがわ)ではその後数十年にわたって土石流や洪水が頻発する未曾有の二次災害へと発展した。
幕府の復興対策と「諸国高役金」の徴収
この大災害に対し、江戸幕府は甚大な被害を受けた地域を直轄領(天領)に編入するなどして救済に乗り出した。時の勘定奉行・荻原重秀は、復興資金を調達するために全国の諸大名や領民に対して石高100石につき金4両を課す諸国高役金(国役金)を創設した。これは全国規模で課された初の災害復興税とも言える画期的な政策であった。
しかし、集められた多額の資金の一部が復興以外の幕府財政の補填に流用されたこともあり、被災地の復興は遅々として進まなかった。のちに新井白石や室鳩巣ら儒学者が荻原重秀の財政再建策(貨幣改鋳など)を厳しく批判する要因の一つにもなり、宝永大噴火は単なる自然災害にとどまらず、幕府の政治・財政のあり方を揺るがす画期となった。