台湾断交(日華平和条約の終了)
【概説】
1972年の日中共同声明による中華人民共和国との国交正常化に伴い、日本が台湾(中華民国)との国交を断絶した出来事。これにより、1952年に両国間で締結された日華平和条約は実質的に失効し、以後の日本と台湾の関係は、非公式の実務関係へと移行することとなった。
サンフランシスコ体制と日華平和条約の結末
第二次世界大戦後のアジア情勢は、1949年の国共内戦における共産党の勝利と中華人民共和国の成立、そして蒋介石率いる国民党政府(中華民国)の台湾逃避によって大きく引き裂かれた。アメリカを中心とする冷戦体制が構築されるなか、日本は1951年のサンフランシスコ平和条約締結にあたり、どちらの「中国」と講和するかという二者択一を迫られた。
アメリカの強い要請を受けた吉田茂首相は、台湾の国民党政府を「中国の正統政府」として選択し、1952年に日華平和条約を締結した。これにより、戦後日本の対中国外交は台湾との公式関係を基軸とし、北京の中華人民共和国政府とは「政経分離」の原則のもと、非公式な民間貿易(LT貿易など)にとどまる二重構造が維持されることとなった。
国際情勢の激変と日中国交正常化への舵取り
1970年代に入ると、東アジアの冷戦構造は激変した。1971年の米中急接近(ニクソン・ショック)と、同年のアルバニア決議による中華人民共和国の国連代表権獲得は、従来の「台湾を正統政府とする」国際秩序を根底から覆した。日本国内でも対中・対台外交の見直しを求める声が急速に高まった。
1972年7月に発足した田中角栄内閣は、日中国交正常化を最優先課題に掲げた。同年9月、田中首相は大平正芳外相らとともに北京を訪問し、周恩来首相との間で日中共同声明に調印した。この声明により、日本は中華人民共和国政府を「中国の唯一の合法政府」として承認し、台湾が中国の不可分の領土であるとする主張を「十分理解し、尊重する」立場を表明した。これに伴い、日華平和条約はその存続の基盤を失うこととなった。
公式関係の終焉と「実務関係」への移行
日中共同声明の共同記者会見において、大平正芳外相は「日中共同声明の発出の結果として、日華平和条約は存続の意義を失い、終了したものと認められる」との日本政府の見解を公式に表明した。これに対し、台湾(中華民国政府)は猛烈に抗議し、即座に対日国交断絶を宣言した。これにより、戦後20年に及んだ日台間の公式な外交関係は終焉を迎えた。
しかし、日本と台湾の間には長年にわたる緊密な経済的・人的結びつきが存在していた。このため、公式な外交関係が断絶したのちも、実務的な交流を維持するための新たな枠組みが考案された。日本側は財団法人「交流協会」(現:日本台湾交流協会)を、台湾側は「亜東関係協会」(現:台湾日本関係協会)をそれぞれ民間窓口機関として設立し、事実上の領事・通商業務を継続した。この「実務関係を維持する非公式関係(窓口機関方式)」の先駆的なモデルは、のちにアメリカが1979年の米中国交正常化(台湾断交)の際に制定した「台湾関係法」などの外交実務にも大きな影響を与えることとなった。