宝暦事件 (ほうれきじけん)
【概説】
江戸時代中期の1758年(宝暦8年)、京都で公家たちに尊王論を講じていた神道家・竹内式部が江戸幕府によって処分された思想弾圧事件。朝廷を幕藩体制下に統制しようとする幕府に対し、公家社会の内部から自立と尊王の動きが芽生えつつあったことを示す、最初期の政治的事件である。
垂加神道の受容と若手公家の覚醒
江戸時代中期、神道と儒学(朱子学)を融合させた垂加神道(すいかしんとう)が知識人の間で広まりを見せていた。この思想は強い尊王敬幕思想を内包していたが、時として天皇の絶対性を強調する方向へと傾斜する性質を持っていた。越後国出身の神道家である竹内式部(たけのうちしきぶ)は、京都に赴いて若手の公家(徳大寺公平や烏丸光栄など)にこの垂加神道や古典の『日本書紀』などを講義した。当時、朝廷は江戸幕府が定めた「禁中並公家諸法度」によって学問以外の政治的活動を厳しく禁じられていたが、式部の講義は若手公家たちの政治的自覚を刺激し、本来の君主である天皇を推戴して朝廷の権威を復興させようとする尊王論の形成を促すこととなった。
幕府・朝廷保守派による弾圧と処分
竹内式部に影響された若手公家たちは、時の桃園天皇(ももぞのてんのう)に対して、天皇みずからが政治や軍事の講義を受けるべきであると働きかけるなど、親政的な復古改革を試み始めた。しかし、この動きに危機感を抱いたのが、関白の近衛内前(このえうちさき)をはじめとする朝廷内部の保守派(親幕府派)の上級公家であった。朝廷内の主導権維持と幕府との摩擦回避を図る保守派公家は、竹内式部が若手公家を教唆して朝廷の秩序を乱しているとして、幕府の京都出先機関である京都所司代に告発した。幕府はこれを受けて介入し、1758年、竹内式部を京都から重追放処分とした。さらに、式部に同調して朝廷改革を企てた若手公家十数名に対しても謹慎や職務剥奪などの厳しい処分を下した。これが「宝暦事件」である。
歴史的意義と「明和事件」への連鎖
宝暦事件は、幕府が朝廷の政治的自立を極めて警戒していたことを端的に示す事件であった。この事件により、桃園天皇による朝廷復古の試みは挫折し、朝廷内の親幕府的体制が再確認された。しかし、弾圧によって抑え込まれた尊王思想の地下水脈は途絶えなかった。のちの1767年(明和4年)には、宝暦事件で追放された竹内式部が再び連座することとなる明和事件が発生し、思想家の山県大弐が幕政批判と尊王論を唱えた罪で処刑されるに至る。このように、宝暦事件は単なる公家社会の内部抗争にとどまらず、のちの幕末期に尊王攘夷(そんのうじょうい)運動として爆発することになる尊王思想の先駆的な闘争として、日本近世史上における重要な転換点と評価されている。