室町幕府
【概説】
足利尊氏によって創始され、京都を本拠とした武家政権。第3代将軍の足利義満が京都の室町に壮麗な「花の御所」を造営して政庁としたことから、この名で呼ばれる。守護大名との連合政権的な性格を持ちながらも、公家や寺社の権力を吸収して公武統一政権へと発展し、日本の社会や文化が大きく転換する中世後期の約240年間を統治した。
成立と南北朝の動乱
1333年の鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇による建武の新政が開始されたが、武士の現実を無視した政策は多くの不満を招いた。武家社会の期待を背負った足利尊氏はこれに反旗を翻し、1336年に京都を制圧して光明天皇(北朝)を擁立すると、新たな武家政権の施政方針である建武式目を制定した。一般にこれが室町幕府の成立とされる(1338年の尊氏の征夷大将軍任官を成立の画期とする見方もある)。
一方、京都を逃れた後醍醐天皇は吉野に南朝を樹立し、全国の武士が二派に分かれて戦う南北朝時代が幕を開けた。幕府内部でも、尊氏と弟の足利直義が対立する観応の擾乱という深刻な権力闘争が発生するなど、初期の幕府体制は極めて不安定であった。しかし、次第に南朝側を軍事的に圧倒し、1392年に第3代将軍・足利義満の下で両朝の合一(南北朝合一)が成し遂げられ、内乱は終息した。
幕府の支配機構と守護領国制
室町幕府の統治体制は、将軍の直轄領(御料所)や直属軍(奉公衆)の規模が鎌倉幕府や後の江戸幕府に比べて小さく、有力な守護大名たちの連合政権としての性格が強かった。
中央機構は、将軍を補佐する管領を筆頭に、軍事・警察を担う侍所、財政を担う政所、裁判を行う問注所などが置かれた。管領は足利一門の細川・斯波・畠山の三氏(三管領)、侍所頭人は山名・一色・赤松・京極の四氏(四職)が交代で務め、有力守護が幕府の中枢を共同で運営するシステムが構築された。また、幕府は諸国に割拠する守護大名を統制するため、彼らを原則として京都に在住させた。
地方においては、鎌倉時代以来の守護の権限が大幅に強化された。刈田狼藉の検断権や使節遵行権の付与、さらには年貢の半分を武士に与える半済令の施行などを通じて、守護は国内の国人(地頭や在地領主)を家臣化し、国単位の広域な領域支配を行う守護大名へと成長を遂げた。
義満・義教による専制化と全盛期
室町幕府の最盛期を現出させたのが、第3代将軍の足利義満である。義満は京都の室町に「花の御所」と呼ばれる大邸宅を造営し、そこへ政庁を移転した。さらに、強大化していた土岐氏、山名氏、大内氏といった有力守護大名を相次いで挑発・討伐し、将軍の権力を絶対的なものとした。政治面でも太政大臣に昇任して公家社会の頂点に立ち、対外的には明との間に日明貿易(勘合貿易)を開始して「日本国王」の称号を獲得するなど、公武を統一し東アジア世界にも君臨する強大な権力を誇った。
義満の死後、第4代義持の時代を経て、第6代将軍・足利義教は「万人恐怖」と称されるほどの強権的な政治を展開した。将軍権力の再強化を目指した義教は、比叡山延暦寺を屈服させ、関東で独立傾向を強めていた鎌倉公方を討伐(永享の乱)するなど積極的な施策を行った。しかし1441年、専制を恐れた有力守護の赤松満祐によって暗殺され(嘉吉の乱)、これを機に将軍の権威は大きく揺らぐこととなった。
応仁の乱と幕府の変容(戦国時代へ)
義教の横死後、幕府の統制力が弛緩すると守護大名間の権力闘争が再び激化し、第8代将軍・足利義政の継嗣問題や、細川勝元と山名持豊(宗全)の覇権争いが複雑に絡み合い、1467年に応仁の乱が勃発した。11年に及ぶ大乱により京都は焦土と化し、幕府の権威は完全に失墜した。地方に下った守護大名たちも、国人や農民の反乱(国一揆・土一揆)や家臣の台頭という下克上の波に飲み込まれ、没落していく者が相次いだ。
1493年、管領の細川政元がクーデターを起こして将軍・足利義材(義稙)を追放し、別の将軍を擁立した(明応の政変)。これにより、将軍は有力大名の傀儡となり、実質的な全国政権としての室町幕府は崩壊、日本は本格的な戦国時代へと突入した。ただし、幕府という機関そのものが消滅したわけではなく、戦国大名たちは自らの領国支配の正当性を担保するために幕府の権威や官位を利用し続けたため、名目上の政権としては長く存続した。
信長の台頭と幕府の滅亡
16世紀後半、尾張国から台頭した織田信長は、1568年に足利義昭を奉じて上洛し、彼を第15代将軍に就任させた。当初は信長の圧倒的な軍事力を背景に幕府の再興が図られたが、将軍の権威回復を目指す義昭と、自らの武力による天下布武を目指す信長は次第に対立を深めた。
義昭は全国の諸大名に密書を送り、信長包囲網を形成して対抗したが、1573年に信長によって京都から追放された。これにより、約240年続いた室町幕府は事実上の滅亡を迎えた。義昭はその後も毛利氏の庇護下などで将軍を名乗り続けたが、京都を本拠とする「公儀」としての政権機構は完全に失われたのである。
室町幕府の歴史的意義
室町幕府は、東国に偏在していた鎌倉幕府とは異なり、政治・経済・文化の中心である京都に本拠を置いたことが最大の特徴である。これにより、武家が公家や寺社勢力の権益を吸収しながら政権を運営する公武統一政権の形態が完成した。また、守護大名との権力分立的なシステムは脆さを内包していた一方で、地方への権限委譲が進んだことで各地域が独自の発展を遂げ、全国的な流通経済の活性化や惣村の発達、さらには後の戦国大名による地域国家への移行を準備するという、極めて重要な歴史的役割を果たした。