南北朝時代

1336年から1392年まで、京都と吉野に二つの朝廷が並立し、全国の武士を二分して争った時代を何というか?
カテゴリ:
重要度
★★★★

南北朝時代

1336年〜1392年

【概説】
1336年の足利尊氏による北朝成立から、1392年の第3代将軍足利義満による南北朝合体まで、京都の北朝と大和国吉野の南朝が並立して激しく対立した時代。皇位継承をめぐる天皇家内部の分裂が、全国の武士層の領地争いや惣領制の解体と結びつき、半世紀以上にわたる全国規模の内乱をもたらした。

南北朝分裂の歴史的背景と建武の新政

南北朝の分裂の根底には、鎌倉時代後期から続いていた天皇家内部の皇統分裂がある。当時、皇室は大覚寺統(後の南朝)と持明院統(後の北朝)の二つの系統に分かれ、鎌倉幕府の介入のもとで交互に皇位に就く両統迭立(りょうとうてつりつ)の原則がとられていた。幕府滅亡後、大覚寺統の後醍醐天皇は天皇親政を目指して建武の新政を開始したが、公家や寺社を優遇し、恩賞の不公平や度重なる法令の変更が相次いだため、武家社会の再建を望む全国の武士から強い不満を招いた。この武士たちの不満と期待を一身に集め、新政から離反したのが足利尊氏であった。

北朝の成立と南朝の吉野遷幸

1336年(建武3年/延元元年)、湊川の戦いで楠木正成らを破って京都を制圧した足利尊氏は、持明院統の光明天皇を擁立し、新たな武家政権の基本方針である建武式目を制定して室町幕府を開いた。これが北朝の成立である。一方、京都に幽閉されていた後醍醐天皇は密かに脱出し、大和国吉野(現在の奈良県)の山中へ逃れて「自らこそが正統な天皇であり、京都に渡した三種の神器は偽物である」と主張し、南朝を樹立した。これにより、日本史上類を見ない、二人の天皇と二つの朝廷が同時に存在する異常事態となった。

全国的動乱への波及と「観応の擾乱」

この二つの朝廷の並立は、単なる皇位継承争いにとどまらなかった。鎌倉時代以来の血縁的結合である惣領制が崩壊しつつあった当時、全国の武士たちは一族の内部で所領をめぐって激しく対立していた。彼らは自らの領地拡大や家督の正当化のために、それぞれが便宜的に南朝や北朝と結びついたため、戦乱は地方へと一気に拡大した。
さらに事態を複雑化させたのが、幕府(北朝)内部の抗争である。将軍尊氏の執事である高師直と、尊氏の弟で政務を担当していた足利直義とが激しく対立し、1350年には観応の擾乱(かんのうのじょうらん)と呼ばれる大規模な内部抗争が勃発した。この抗争の過程で、尊氏・直義の双方が自陣営の有利を図るために一時的に南朝に降伏・和睦する(正平の一統など)といった事態が頻発し、動乱の長期化を決定づけた。

東アジア情勢への影響と「前期倭寇」

長期にわたる日本の内乱は、東アジアの国際情勢にも多大な影響を及ぼした。国内の統制が緩み、海防機能が低下した結果、九州北部や瀬戸内海沿岸の武士や悪党、漁民の一部が武装化し、朝鮮半島や中国沿岸を襲撃する前期倭寇が活発化した。1368年に中国大陸で建国されたは、倭寇の鎮圧を日本に求めるため、当時九州で強大な勢力を誇っていた南朝方の懐良親王(かねよししんのう)に国書を送り、彼を「日本国王」に冊封した。このように、南北朝の対立は対外関係の窓口をも二分する事態を招いていた。

「南北朝合体」と内乱の歴史的意義

半世紀以上に及ぶ泥沼の動乱も、第3代将軍足利義満の時代に入ると収束へ向かう。義満は京都に花の御所を造営して幕府の権力を強化し、山名氏や大内氏といった有力な守護大名を次々と討伐して、北朝側の絶対的優位を確立した。そして1392年、義満の斡旋により、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を譲り渡すという形式で、ついに南北朝合体(明徳の和約)が成立した。合体の条件として両統迭立の復活が約束されたが、これは後に反故にされ、以後皇統は北朝系に一本化されることになる。

南北朝時代は、日本の中世社会における巨大な転換点であった。この長きにわたる戦乱を通じて、古代から続いた荘園公領制は決定的に崩壊へと向かい、国内の軍事指揮権のみならず刈田狼藉の検断権や半済の権利を獲得した守護大名が、確固たる地域支配を確立していくこととなる。同時に、権威や身分秩序を実力で打ち破る下剋上の風潮が芽生え、惣村の形成など民衆の成長も見られるなど、後の室町・戦国時代を形作る新たな社会構造がこの時代に形成されたのである。

日本の歴史 (9) 南北朝の動乱 (中公文庫)

混沌の時代を切り拓いた足利尊氏と後醍醐天皇の激動を追う、通史の決定版。

観応の擾乱 – 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書 2443)

室町幕府の崩壊と再生を決定づけた尊氏・直義兄弟による凄絶な身内争いの全貌。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 1935年8月、皇道派の中佐が統制派の中心人物である陸軍省軍務局長を斬殺し、陸軍内の派閥抗争が表面化した事件を何というか?
Q. 江戸時代の大名の分類のうち、徳川家康の男系子孫など、将軍家の一門にあたる大名家を何というか?
Q. ヨーロッパにおける覇権争いで、オランダがフランスの支配下に入ったため、イギリス艦フェートン号が長崎に侵入する遠因となった戦争は何か?