ナポレオン戦争 (なぽれおんせんそう)
【概説】
18世紀末から19世紀初頭にかけて、フランス皇帝ナポレオン1世率いるフランス帝国と同盟国が、イギリスをはじめとする対仏大同盟諸国との間で戦った大規模な国際戦争。日本史においては、当時「鎖国」体制下で唯一の欧州の通商国であったオランダがフランスに併合されたことで、東アジアの情勢や江戸幕府の対外政策、特にフェートン号事件に決定的な影響を与えた出来事である。
ヨーロッパの覇権闘争とオランダの主権喪失
ナポレオン戦争は、フランス革命の精神拡大とヨーロッパ覇権をめぐる一大戦争であった。この過程で、1795年にフランスによってオランダ(ネーデルラント連邦共和国)が征服され、親仏派の「バタヴィア共和国」が成立、さらに1806年にはナポレオンの弟ルイを王とする「ホラント王国」へ改編された。そして1810年にはフランス帝国に完全に併合され、オランダ国家は一時的に消滅した。
このオランダの主権喪失は、アジアの植民地や貿易網に深刻な影響を及ぼした。当時、オランダ東インド会社(1799年に解散)を介して長崎の出島で限定的な貿易を行っていた江戸幕府は、ヨーロッパの劇的な政情変化を正確には把握していなかった。しかし、世界的な制海権を握るイギリスが、フランスの支配下に入ったオランダのアジアルートや植民地を次々と攻略していったことで、日本の平和な「鎖国」体制も否応なくこの世界戦争の渦中に巻き込まれていくこととなった。
長崎を揺るがしたフェートン号事件
ナポレオン戦争の余波が日本に直接的な脅威として現れたのが、1808年(文化5年)に発生したフェートン号事件である。当時、オランダを事実上の敵国とみなしていたイギリスは、インドや東南アジアのオランダ拠点を次々と制圧。さらに、東アジアに残るオランダの交易拠点であった長崎出島を狙い、イギリス軍艦「フェートン号」を派遣した。
フェートン号はオランダ国旗を偽装して長崎港に侵入し、出島のオランダ商館員を人質に取って食料や飲料水を要求した。長崎奉行の松平康英はこれを撃退しようとしたが、当時の長崎警備を担当していた佐賀藩・福岡藩の兵力が著しく不足していたため、要求を呑まざるを得なかった。フェートン号退去後、責任を感じた松平康英は自刃し、佐賀藩主の鍋島斉直らも処分を受けるという悲劇をもたらした。この事件は、ヨーロッパの戦争が日本の国境線にまで押し寄せてきたことを幕府に痛感させる契機となった。
対外緊張の高まりと「鎖国」政策の再構築
フェートン号事件を契機に、江戸幕府は沿岸警備の脆弱さを露呈し、国防意識を急速に高めることとなった。幕府はオランダ風説書などを通じて世界情勢の把握に努めるとともに、それまで比較的寛容であった外国船への対応を厳格化していくことになる。
ナポレオン戦争期の対外緊張は、北方のロシアをめぐるゴローニン事件(1811年)などとも連動し、日本周辺の対外危機感を決定づけた。その後、幕府は1825年に異国船打払令(無二念打払令)を出し、来航する外国船を例外なく砲撃して退去させる強硬姿勢へと転換する。このように、一見日本とは無関係に思えるヨーロッパの覇権闘争=ナポレオン戦争は、江戸後期の「祖法としての鎖国」を過激化させ、のちの幕末の開国問題へとつながる外交的転換点となったのである。