フェートン号
【概説】
1808年(文化5年)、敵国であるオランダの商船を拿捕する目的で、イギリスの軍艦が長崎港に不法侵入した事件(フェートン号事件)。ヨーロッパにおけるナポレオン戦争の余波が日本に及んだものであり、幕府の海防政策や諸藩の軍事改革に多大な影響を与えた。
ナポレオン戦争とイギリスの極東進出
19世紀初頭のヨーロッパでは、ナポレオン・ボナパルトの覇権のもと、オランダはフランスの支配下(ホラント王国)に置かれていた。これにより、フランスと敵対関係にあったイギリスは、世界各地にあるオランダの海外植民地や貿易網を軍事的な標的とするようになった。
イギリス海軍の軍艦フェートン号(艦長フリートウッド・ペリュー)は、オランダの東インド会社が独占していた対日貿易船を拿捕するため、極東の長崎へと向かったのである。これは、ヨーロッパの国際紛争であるナポレオン戦争の余波が、鎖国下の日本に直接及んだ出来事であった。
長崎不法侵入と松平康英の苦悩
1808年(文化5年)8月、フェートン号はオランダの国旗を偽装して長崎港に接近した。慣例に従い、長崎奉行所の役人とオランダ商館員が小舟で出迎えたところ、フェートン号は突如武装したボートを下ろし、商館員2名を拉致した。その後、イギリス国旗を掲げ、人質と引き換えに薪水と食料(牛肉や豚肉など)を要求した。
当時の長崎奉行・松平康英(まつだいらやすひで)は、ただちに異国船の打ち払いを決意したが、ここで重大な問題が発覚する。長崎港の警備は筑前福岡藩と肥前佐賀藩が隔年で担当していたが、当番であった佐賀藩は幕府に無断で守備兵を大幅に削減していたのである。規定の1000名に対して数十名しか兵が駐留しておらず、大村藩などに急遽援軍を要請したものの、即座の武力行使は不可能な状態であった。
事件の結末と関係者の処罰
圧倒的な武力不足を前に、松平康英は長崎の町や住民への被害を避けるため、やむなくオランダ商館長(カピタン)ドゥーフの助言に従い、要求された物資を提供した。物資を受け取ったフェートン号は、人質を解放して長崎港から悠然と退去した。
事態が収拾した翌日、松平康英は国威を汚した責任を一身に背負い、引責切腹を遂げた。また、長崎警備の義務を怠っていた佐賀藩に対する幕府の処罰も厳しく、藩主・鍋島斉直(なべしまなりなお)は閉門の処分を受け、家老ら数名が切腹を命じられるという深刻な事態に発展した。
幕府の対外政策と佐賀藩への影響
このフェートン号事件は、太平の眠りについていた日本社会に強烈な衝撃を与え、その後の歴史に決定的な影響を及ぼした。幕府は西洋列強の圧倒的な武力に対する警戒感を強め、沿岸警備の強化に乗り出すことになる。その後もイギリス船の接近が相次いだことで、幕府は強硬な排外政策へ傾斜し、1825年の異国船打払令(無二念打払令)制定へと繋がる重要な契機となった。
また、甚大な屈辱と痛手を受けた佐賀藩は、この事件を強烈な教訓とした。次代の藩主・鍋島直正(なべしまなおまさ)のもとで、西洋兵学の導入や反射炉の建設、アームストロング砲の製造など、国内最先端を行く軍事近代化を推進することとなる。フェートン号事件は、幕末における佐賀藩の雄藩としての躍進、ひいては日本の近代化を準備する遠因となったのである。