統監府

第2次日韓協約に基づき、韓国の外交を指揮・監督するために漢城(ソウル)に設置された日本の役所は何か?
カテゴリ:
重要度
★★★

統監府

1905年〜1910年

【概説】
1905(明治38)年の第2次日韓協約(韓国保護条約)に基づき、大韓帝国の外交権を接収し、同国を保護国化するために漢城(現在のソウル)に設置された日本の出先機関。初代統監には伊藤博文が就任し、当初は外交の管理を主目的としていたが、次第に韓国の内政全般を掌握するようになり、1910(明治43)年の韓国併合に伴って朝鮮総督府へと改組された。

設置の背景と第2次日韓協約

日露戦争(1904〜1905年)の勝利によって、日本は朝鮮半島における優越権をロシアおよび国際社会から承認された。これを受けて日本政府は、大韓帝国(韓国)への支配を決定的なものとするため、1905(明治38)年11月に第2次日韓協約(韓国保護条約、乙巳保護条約)を強要した。この協約により、韓国は独自の外交権を剥奪されて日本の保護国となり、韓国の外交事務を管理し、日本の利益を代表する機関として漢城に統監府が設置されることとなった。1906(明治39)年2月に統監府が開庁し、初代統監には元老の伊藤博文が就任した。

権限の拡大と第3次日韓協約

設置当初、統監府の権限は韓国の外交権の管理に限定されており、形式上は内政に直接干渉しないこととされていた。しかし、韓国国内での反日運動が続く中、1907(明治40)年に韓国皇帝の高宗が、日本の保護国化の不当性を国際社会に訴えるため万国平和会議に密使を派遣するハーグ密使事件が起きた。伊藤博文はこの事件を口実に高宗を退位に追い込み、新たに第3次日韓協約(丁未約条)を締結させた。これにより統監府の権限は大幅に強化され、韓国の高級官吏の任免権を掌握し、各省の次官に日本人を登用する「次官政治」を開始した。さらに韓国軍の解散を断行し、統監府は事実上、内政全般を支配する最高権力機関へと変貌した。

義兵闘争の激化と武力弾圧

韓国軍の解散は、朝鮮半島全土における激しい抗日武装闘争(反日義兵闘争)を引き起こした。解散させられた元軍人たちが義兵に合流し、近代的な装備を持つ組織的な抵抗運動が展開されたのである。これに対し、統監府は日本軍の増強と憲兵警察制度の導入によって徹底的な武力弾圧(南韓大討伐作戦など)を行った。この過程で多数の韓国民が犠牲となり、武断的な支配体制が築き上げられていった。同時に、統監府は鉄道網の整備や度量衡の統一など、日本の経済的進出を容易にするためのインフラ整備や制度改革も推し進めた。

韓国併合と朝鮮総督府への改組

伊藤博文は1909(明治42)年6月に統監を辞任したが、同年10月にハルビンで韓国の民族運動家・安重根によって暗殺された。この事件を契機として、日本国内では韓国を完全に領土化すべきだという併合論が一気に加速した。第2代統監の曾禰荒助を経て、陸軍出身の寺内正毅が第3代統監に就任すると、韓国の警察権をも完全に掌握して抵抗を封じ込め、1910(明治43)年8月に韓国併合条約を締結した。これにより大韓帝国は滅亡して日本の植民地(朝鮮)となり、統監府は廃止されて、より強力な統治権限を持つ朝鮮総督府へと改組された。統監府が存在した約4年半は、日本が韓国を保護国から完全な植民地へと転落させるための過渡期であり、日本の帝国主義政策の遂行において決定的な役割を果たした機関であったといえる。

韓国併合-大韓帝国の成立から崩壊まで (中公新書 2712)

大韓帝国の興亡から併合へ至る歴史の必然を、膨大な史料と冷静な筆致で解き明かした必読の現代史。

日本外交の150年: 幕末・維新から平成まで

幕末から平成に至る激動の時代を俯瞰し、外交政策の変遷と国際社会における日本の立ち位置を問う一冊。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 1999年、改定された日米防衛協力のための指針(新ガイドライン)の実効性を確保するために制定された、周辺事態法などの関連法案を総称して何というか?
Q. 1872年の大火災を機に、政府によって不燃化を目的とした西洋風のレンガ造りの街並みが建設された東京の地区はどこか?
Q. 1955年8月、世界中から代表が集まり、広島で初めて開催された核兵器の廃絶を訴える大規模な国際大会は何か?