第2次日韓協約

1905年、日本が韓国の外交権を接収し、ソウルに統監府を設置して韓国を日本の保護国とした協約は何か?
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第2次日韓協約

1905年

【概説】
1905年(明治38年)11月、日本が韓国に対して強要して締結させ、実質的な保護国とした協約。
日本は韓国の外交権を完全に剥奪して統監府を設置し、韓国が国際社会における独立国としての地位を失う決定的な段階となった歴史的事件である。

締結に至る背景と列強の承認

日露戦争の勃発以降、日本は韓国の植民地化を段階的に推し進めていた。1904年には日韓議定書を結んで軍事上の要地収用権を得て、続く第1次日韓協約では、日本が推薦する財政および外交顧問を韓国政府に雇用させることを義務付けた。

1905年に入り日露戦争での日本の優位が確定的となると、日本は韓国の完全な保護国化に向けた外交工作を周到に展開した。同年7月の桂・タフト協定において、アメリカのフィリピン支配を認める代わりに日本の韓国における指導権を承認させた。さらに8月の第2次日英同盟ではイギリスからも同等の承認を取り付けた。そして9月、ロシアと結ばれた講和条約であるポーツマス条約において、ロシアに日本の韓国に対する政治的、軍事的、経済的な優越権を認めさせた。これにより、日本が韓国の外交権を奪い保護国化することに対する、欧米列強の国際的な承認が完了したのである。

協約の強制と内容

列強の承認を背景に、1905年11月、日本政府は特派大使として伊藤博文を韓国に派遣した。伊藤は日本軍の武力を背景にして、韓国皇帝である高宗および韓国政府の閣僚に対して協約の締結を強硬に迫った。高宗は最後まで署名を拒否したものの、学部大臣の李完用ら5名の閣僚(後に韓国側から「乙巳五賊」と非難される)の賛同により、半ば強引に調印がなされた。干支から「乙巳保護条約」とも呼ばれている。

この協約の核心的な内容は、韓国の外交権の完全な接収である。韓国の対外関係や事務はすべて日本の外務省が監理・指揮することとされ、韓国は日本政府の仲介を経ずしてはいかなる国際条約も結ぶことができなくなった。また、韓国の外交を直接管理し、内政にも強い影響力を行使する機関として漢城(現在のソウル)に統監府が設置されることとなり、翌1906年に初代統監として伊藤博文が就任した。

韓国側の激しい抵抗と歴史的意義

第2次日韓協約の締結は、韓国が実質的に国家としての独立を喪失したことを意味しており、韓国内に激しい反発を引き起こした。儒生や元軍人らを中心とする民衆は各地で武装蜂起し、反日抗争である義兵闘争が激化していった(第二次義兵闘争、あるいは乙巳義兵と呼ばれる)。

皇帝高宗も日本の不当な支配に屈せず、条約の無効を国際社会に訴えるため、1907年にオランダのハーグで開催されていた第2回万国平和会議に密使を派遣した(ハーグ密使事件)。しかし、列強はすでに日本の韓国支配を黙認していたため密使は受け入れられず、逆に日本はこの事件を口実として高宗を強制的に退位させた。そして同年の第3次日韓協約によって韓国の内政権をも剥奪し、韓国軍を解散させることになる。

このように、第2次日韓協約は日本による韓国の植民地化過程における決定的な画期であり、1910年の韓国併合へ向けた不可逆的なレールを敷いた極めて重要な転換点であった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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