張学良 (ちょうがくりょう)
【概説】
中国東北部(満州)を地盤とした奉天派軍閥の指導者。1928年に関東軍によって父・張作霖を暗殺された後、蒋介石の率いる南京国民政府に合流した。満州において強力な排日運動(国権回復運動)を展開して日本の大陸権益と激しく対立し、のちの満州事変や日中戦争へと至る昭和初期の東アジア情勢に多大な影響を与えた。
父・張作霖の暗殺と「易幟」による中国統一
1928年(昭和3年)、満州軍閥の巨頭であった父の張作霖が、日本の関東軍によって爆殺される事件(張作霖爆殺事件、満州某重大事件)が発生した。関東軍は張作霖を排除することで満州における日本の支配権を強化しようと企図したが、跡を継いだ張学良は逆に日本に対する警戒と反発を決定的に強めることとなった。同年12月、張学良は満州に掲げられていた旧軍閥の旗を降ろし、蒋介石率いる南京国民政府の青天白日満地紅旗を掲げる「易幟(えきし)」を行った。これにより国民政府は名実ともに中国全土の統一(北伐)を完了させ、満州を中国本土から切り離そうとした日本の分離工作は完全に裏目に出る結果となった。
国権回復運動の推進と満州事変
国民政府に合流した張学良は、満州における中国の主権を回復しようとする国権回復運動(排日運動)を強力に推進した。具体的には、南満州鉄道(満鉄)の経営を圧迫するために独自の鉄道路線(満鉄包囲線)を建設したり、日本の租借地である関東州の返還を求めたりするなど、日本の満州における特殊権益と真っ向から衝突した。これに強い危機感を抱いた関東軍は、1931年(昭和6年)9月に柳条湖事件を起こして満州事変を引き起こした。この時、張学良は蒋介石の「不抵抗方針」に従って本格的な武力衝突を避け、満州から万里の長城以南へと兵を退いた。これにより、日本は短期間で満州全土を占領し、翌1932年には傀儡国家である満州国を建国することになる。
西安事件と抗日民族統一戦線の形成
満州を追われた張学良の部隊は、中国西北部の陝西省に配置され、蒋介石から中国共産党軍の討伐(剿共戦)を命じられた。しかし、日本の中国への軍事侵攻が華北へと拡大する中、張学良や満州を故郷とする部下たちの間では「同胞同士で内戦をしている場合ではなく、一致して日本に抗戦すべきだ」という不満が高まっていた。1936年(昭和11年)12月、張学良は督戦のために西安を訪れた蒋介石を武力で監禁し、内戦の停止と抗日戦線の結成を迫った(西安事件)。周恩来ら共産党側の調停もあり、蒋介石がこれを受諾したことで国共内戦は停止へと向かい、翌1937年に勃発する日中戦争における第2次国共合作(抗日民族統一戦線の結成)の決定的な契機となった。張学良のこの決断は、日本の大陸戦略にとって最大の誤算を生むこととなった。
半世紀に及ぶ軟禁生活と晩年
西安事件において蒋介石に方針転換を認めさせた張学良であったが、軍の最高司令官を監禁した罪は重く、事件解決後に自ら南京へ赴いて軍法会議にかけられた。特赦により死刑は免れたものの、以後彼は長きにわたって軟禁状態に置かれることとなる。日中戦争が終結し、その後の国共内戦で敗れた国民党政府が台湾へ逃れる際にも張学良は台湾へ移送され、厳重な監視下での生活を余儀なくされた。彼が完全に自由の身となったのは、蒋介石とその子である蒋経国が死去した後の1990年(平成2年)のことである。その後はアメリカのハワイに移住し、2001年に100歳の天寿を全うした。日本の昭和史を大きく揺るがし、激動の東アジア近現代史をその身で体現した特筆すべき人物である。