易幟 (えきし)
1928年
【概説】
1928年12月、中国東北地方(満州)の軍閥・張学良が、旧軍閥政府の旗を下ろして南京国民政府の旗を掲げ、蒋介石への合流を表明した出来事。これにより蒋介石による中国全土の統一が名目上達成された。日本の大陸政策(満蒙政策)に重大な影響を与え、のちの満州事変へとつながる転換点となった。
関東軍の思惑と張学良の決断
1928年6月、関東軍(日本の満州駐留軍)の参謀・河本大作らの謀略によって、満州の支配者であった張作霖が爆殺された(張作霖爆殺事件)。関東軍は、この混乱に乗じて満州を日本の強い影響下に置くことを画策していたが、後を継いだ息子の張学良は日本の思惑通りには動かなかった。彼は父を殺害した日本への反感を強め、対抗策として、北伐を進めていた蒋介石の南京国民政府に接近する道を選択した。
「易幟」の断行と日本への影響
1928年12月29日、張学良は東北地方全域において、これまでの北京政府の「五色旗」を下ろし、国民政府の「青天白日満地紅旗」を掲げる「易幟」を断行した。これにより、蒋介石の国民政府による中国の「全国統一」が名目上完成した。日本(田中義一内閣)は、満州を中国本土から切り離して日本の特殊権益を維持しようとする「満蒙分離政策」を画策していたが、易幟によってその目論見は崩壊した。満州における中国側の国権回収運動(鉄道権の回収など)が激化することとなり、これが1931年の満州事変を誘発する最大の伏線となった。