和泉 (いずみ)
【概説】
奈良時代に河内国から分離・独立して設置された、畿内(五畿)の一つにあたる令制国。現在の大阪府南西部(泉州地域)に該当し、大鳥・和泉・日根などの郡から構成されていた。瀬戸内海から畿内中枢へと至る海上交通の要衝として栄え、中世には自治都市・堺を擁するなど日本経済・文化の中心の一翼を担った。
特殊行政区「和泉監」から和泉国への変遷
和泉国は、律令制初期から単独の国として存在していたわけではなく、元々は河内国の一部であった。この地域が独立した行政区画となる契機は、霊亀2年(716年)に元正天皇の離宮である珍努宮(ちぬのみや、のちの和泉宮)が造営されたことにある。この時、離宮を管理するために河内国から大鳥・和泉・日根の三郡が割かれ、和泉監(いずみげん)という特殊な地方行政機関が設置された。これは同時代に吉野宮の管理のために置かれた芳野監(よしのげん)と同様の性質を持つものであった。
その後、天平12年(740年)に和泉監は一度廃止され、再び河内国に併合されたが、天平宝字元年(757年)に再び分離され、正式に和泉国として成立した。これにより、日本の中心部である畿内は、大和・山城・摂津・河内・和泉の五国体制となり、いわゆる「五畿(五畿七道)」が確立することとなったのである。
海上交通の要衝と渡来人文化
地理的に大阪湾(古くは茅渟の海と呼ばれた)に面する和泉国は、西日本や大陸から瀬戸内海を経由してヤマト王権の中枢(飛鳥や平城京)へ至る水上交通の玄関口であった。そのため、古代から渡来人が多く定着した地域としても知られる。優れた技術をもつ渡来系氏族は、この地の須恵器生産や溜池灌漑などの開発に大きく貢献し、和泉地域の経済的・文化的な基盤を築き上げた。
中世における繁栄と「堺」の台頭
中世に入ると、和泉国は熊野詣の経由地として宿駅が発達し、人々の往来がさらに活発となった。室町時代には、守護大名である細川氏や大内氏などがこの地の豊かな経済力を巡って激しい争いを繰り広げた。
和泉国の歴史を語る上で欠かせないのが、和泉国と摂津国の国境に位置した港湾都市・堺の存在である。堺は室町時代後期から戦国時代にかけて、日明貿易(勘合貿易)や南蛮貿易の拠点として未曾有の繁栄を謳歌した。会合衆(えごうしゅう)と呼ばれる有力な豪商たちによって都市運営が行われ、周囲に環濠を巡らせたその姿は、来日した宣教師によって「東洋のベニス」と称されるほどの高度な自治都市へと発展した。また、千利休に代表される茶の湯文化が花開いたのもこの地であった。
近世から近代にかけての和泉
戦国時代末期、織田信長や豊臣秀吉の強大な武力と政策によって堺の特権的な自治は解体され、天下人の直轄地として組み込まれた。江戸時代に入ると、和泉国には岸和田藩などが置かれたほか、経済的に重要な地域であることから幕府の直轄領(天領)も多く配置された。綿花栽培などの商品作物生産も盛んに行われ、大坂の経済圏を支える後背地として機能し続けた。
明治維新後の廃藩置県(1871年)に伴い和泉国は再編され、堺県を経て、最終的に現在の大阪府へと編入された。現在でもこの地域は「泉州」と呼ばれ、古代から続く独自の歴史的・文化的なアイデンティティを保っている。