多禰国 (たねのくに)
702年〜824年
【概説】
8世紀初頭、大和朝廷が種子島や屋久島などを領域として新たに設置した令制国。律令国家の南方拡大を示す象徴的な存在であり、遣唐使の航路確保という対外的な軍事・外交戦略上の重要性を持っていたが、9世紀前半に廃止されて大隅国に編入された。
律令国家の南方拡大と多禰国の設置
大宝律令が制定された直後の702年(大宝2年)、『続日本紀』には「薩摩と多褹が叛く、ここに於いて兵を発して征討し、戸口を校計し、始めて吏を置く」との記述がある。この時に薩摩国とともに大和朝廷の支配下に入り、国として設置されたのが多禰国(多褹国とも表記)である。多禰国の領域は、現在の種子島(多褹郡)や屋久島(馭謨郡)などを中心としていた。当時の朝廷は、支配地域を拡大し独自の天下を示す「王土王民」思想に基づき、北方の蝦夷や南方の南島(隼人や奄美島人など)への服属要求を強めており、多禰国の設置はその政策の到達点の一つであった。
対外交渉の「南島路」と多禰国の廃止
多禰国の設置は、当時の対外関係と密接に結びついていた。同時期、日本と新羅との関係が悪化したため、遣唐使の航路はそれまでの朝鮮半島西岸を経由する「北路」から、五島列島や南西諸島を経由して東シナ海を横断する「南路」や、さらに南寄りの「南島路」へと移行した。多禰国は、この過酷な南島路を進む遣唐使船にとっての貴重な寄港地・補給拠点として、また南島諸島からの朝貢を管理する窓口として機能した。しかし、9世紀に入ると、現地の治安安定や財政負担の軽減、さらには航路の安定化などに伴い国としての独立を維持する必要性が薄れ、824年(天長元年)に廃止されて対岸の大隅国に編入され、大隅国多褹郡となった。