国権論
【概説】
明治期の日本において、個人の自由や権利(民権)よりも、国家の独立維持、軍事・経済的な国力の強化、および対外的な権益拡大を最優先に位置づけた思想。欧米列強による植民地化の脅威に対抗し、近代国家としての地歩を固めるための指導理念となった。
「民権」との相克と「民権即国権」の論理
明治初期の思想界や政治運動においては、自由民権運動に代表される民権論と、国家の主権や権威を重んじる国権論が対立的に語られることが多い。しかし、両者は必ずしも相容れないものではなかった。初期の民権論者の多くは、「人民の権利を伸張し、国民としての自覚を持たせることこそが、結果として国家の独立(国権)を強固にする」という「民権即国権」の論理を展開していた。すなわち、民権の獲得は国権を強化するための手段という側面を有していたのである。
しかし、明治10年代後半に入ると、欧米列強との不平等条約改正交渉の難航や、朝鮮半島をめぐる清国との対立など、東アジアをめぐる国際緊張が高まる。これに伴い、自由や権利の主張は国威の発揚や軍備の増強を阻害するものとみなされるようになり、個人の権利主張を抑えてでも国家の力を結集すべきとする純粋な国権論が急速に台頭していった。
知識人の変節と帝国主義への傾斜
国権論の台頭を象徴するのが、当時の言論界をリードした知識人たちの思想的変遷である。かつて『学問のすすめ』で個人の独立を説いた福沢諭吉は、1870年代後半以降、『通俗国権論』などを著して国権の拡張を強く主張するようになり、のちの「脱亜論」へとつながる対外強硬姿勢を示した。また、平民主義を唱えて地方の青年層に絶大な影響力を持っていた徳富蘇峰も、日清戦争後の三国干渉による屈辱を契機として、強力な国権論(国家主義・帝国主義)へと転向した。
さらに、近代化に伴う極端な欧化主義に反対し、日本の文化的独自性を保ちながら国力を高めようとする三宅雪嶺や志賀重昂らの政教社(国粋主義)の動きも、広義の国権論を支えるイデオロギーとなった。これらの言論は、日清戦争から日露戦争へと向かう世論を強力に牽引し、日本が主権線(国境)の防衛にとどまらず、利益線(朝鮮半島や中国大陸への利権)の確保を目指す帝国主義国家へと変貌する道を決定づけることとなった。