斯波義敏

高校日本史的重要度
★★

【参考リンク】
斯波義敏(Wikipedia)

「斯」の書き方

斯波義敏 (しばよしとし)

1435年〜1508年

【概説】
室町時代中期の武将・守護大名。足利一門の有力守護家・斯波氏(武衛家)の当主であり、守護代の甲斐氏との対立や斯波義廉との家督争い(武衛騒動)を引き起こした。この内訌が畠山氏の家督争いなどと連動し、応仁の乱を誘発する一因となった。

「武衛騒動」と守護代との対立

斯波氏室町幕府において管領を交代で務める「三管領」の一つであり、越前・尾張・遠江守護を兼ねる極めて有力な名門(武衛家)であった。1452年、前当主が急死したため、大野斯波氏の出身であった斯波義敏が家督を継承した。しかし、斯波氏領国では実権を握る越前守護代甲斐常治ら有力家臣の力が強く、義敏は彼らとの対立を深めていく。特に越前国の支配をめぐる両者の対立は武力衝突(長禄合戦)へと発展した。8代将軍・足利義政は当初、家臣でありながら守護に抗う甲斐氏を抑えようとしたが、のちに方針を転換して甲斐氏を支持し、命令に背いた義敏は家督を追われ周防国へと逃亡した。代わって渋川氏出身の斯波義廉が新たな家督に据えられた。この斯波氏の家督をめぐる深刻な内訌は「武衛騒動」と呼ばれ、幕府の衰退を早める契機となった。

応仁の乱への発展と東軍への参画

周防に亡命していた義敏であったが、将軍・足利義政の気まぐれな政策や、幕府内の権力闘争の進展に伴い、復権のチャンスを得る。義政は義廉を退けて義敏を復帰させようと画策し、これに危機感を募らせた義廉は有力守護大名山名宗全(持豊)と結んだ。一方、義敏は宗全と対立する管領細川勝元の支持を取り付け、家督奪還を目指した。この斯波氏の家督争いは、同様に発生していた畠山氏の家督争いや、将軍家の後継者問題(足利義視足利義尚の対立)と複雑に絡み合い、幕府を二分する大乱へと発展した。1467年に応仁の乱が勃発すると、義敏は細川勝元率いる東軍に属し、山名宗全率いる西軍に属した斯波義廉と激しい戦闘を繰り広げた。応仁の乱は11年間にわたって京都を焼き尽くし、室町幕府の支配秩序を根本から崩壊させることとなった。

斯波氏の没落と「下剋上」の進展

応仁の乱を通じて、義敏は形式的に斯波氏の家督を取り戻すことには成功したものの、長年の戦乱によって領国に対する統治力は完全に失墜した。特に本国であった越前国では、かつて斯波氏被官(家臣)であり、応仁の乱の過程で東軍へと寝返った朝倉敏景(孝景)守護に匹敵する実質的な領国支配を確立していった。また、尾張国でも守護代織田氏が台頭し、斯波氏は名目上の守護にすぎない存在へと転落した。義敏が引き起こした家督争いは、結果として一族の没落を招くだけでなく、家臣が主君を凌駕する「下剋上」の風潮を決定づけ、戦国時代の幕を開ける歴史的契機となった。

最終更新:
2026年8月12日 @ 22:54

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