木臼・竪杵 (弥生時代)
【概説】
収穫した稲の脱穀(脱粒)やもみすりを行うために、セットで用いられた木製の道具。弥生時代の水田稲作の普及を技術面から支えた代表的な木器であり、当時の食糧加工プロセスを示す重要な歴史資料である。
稲作農耕と調整加工技術の成立
弥生時代に日本列島へ伝来した水田稲作は、栽培技術だけでなく、収穫した穀物を食用へと加工する調製技術の導入をも伴っていた。その加工工程において中心的な役割を果たしたのが、木をくり抜いて作られた木臼と、棒状の竪杵である。収穫された籾(もみ)を木臼に入れ、上から竪杵で突くことによって、籾殻を取り除く「もみすり」や、玄米を精米する作業が行われた。
これらの木製品は、水分に富む低湿地遺跡である静岡県の登呂遺跡や福岡県の板付遺跡などから、良好な状態で数多く出土している。金属器の普及以前は、石製・木製の工具を用いてこれら精巧な木器が製作されており、当時の木工技術の高さを示している。
収穫法の変化と食糧加工の変遷
弥生時代前期から中期にかけては、稲の穂先のみを摘み取る石包丁を用いた「穂首刈り」が主流であった。この段階では、刈り取った穂を乾燥させた後、高床倉庫などに保管し、必要な分だけをその都度、木臼と竪杵を用いて脱穀・精米していたと考えられる。
その後、中期後半から後期にかけて鉄製の鎌が普及すると、稲を根元から刈り取る「根刈り」へと収穫方法が変化した。これに伴い、収穫後の一括した脱穀作業が必要となり、木臼と竪杵を用いた共同作業のプロセスは、集落の年間スケジュールにおいてさらに重要な位置を占めるようになった。
共同労働と弥生社会への影響
木臼と竪杵による脱穀やもみすりは、多大な身体的労力を必要とする作業であった。そのため、この工程は個々の家族単位にとどまらず、集落共同体における共同労働として行われることが多かったと考えられている。後に定着する、複数人で交互に杵を突き下ろす作業形態は、集落内の協同関係や共同体意識を強化する契機となった。
食糧加工におけるこのような組織的労働の経験は、水路の開削や田植え、収穫といった稲作プロセス全体の組織化を促し、やがて集落を統率する指導者(首長)の誕生や、社会の階層化をもたらす歴史的背景となった。